健康と平和

 私はいつも身体の不調があってから健康のことを思い出します。常にそれを考えるのが苦手で、何か具合が悪い時になって「その具合の悪さがない状態」を望むべき健康として思い浮かべるのです。たいていは「健康のことを忘れているのが健康の証拠」などと嘯いています。


 かつて世界保健機構(WHO)は、健康を「完全な肉体的(physical)、精神的(mental)及び社会的福祉(social well-being)の状態であり、単に疾病又は病弱の存在しないことではない」

 Health is a state of complete physical, mental and social well-being and not merely the absence of disease or infirmity.

 と定義していました。これは保健の授業か何かで習った覚えもあります。まあここですでに「健康とは疾病のない状態ではない」と私の曖昧な考え方は否定されてしまうわけですが、気付かぬうちにこの健康の定義の改正という議論があったのです。


 それは、健康を「完全な肉体的、精神的、spiritual及び社会的福祉のdynamicな状態であり、単に疾病又は病弱の存在しないことではない」

 Health is a dynamic state of complete physical, mental, spiritual and social well-being and not merely the absence of disease or infirmity.

 とするもので、spiritualという語とdynamicという語が追加されたものです。健康定義改正案が最初に提案されたのは1998年1月19日から開催された第101回WHO執行理事会でしたが、これは2000年5月17日から5月25日までジュネーブにおいて開催された第52回WHO総会で、審議入りしないまま採択も見送りとなりました。この否決から5年が過ぎていますが、未だに改正は果たされていません。
(参考:WHO憲章における「健康」の定義の改正案についてWHO憲章の健康定義が改正に至らなかった経緯
 

 健康を「疾病のない状態」とするのならば議論は簡単でしょう。それをWHOは「physical・mental・social」という面で踏み込んだ定義づけをしてきました。これは行動理念と申しますか、組織の存在意義にも関わる積極的な定義であったと思います。
 そして今回、物質文明の追求だけでいいのかという議論が出て「spiritual」というところへ踏み出そうとし、甲論乙駁で慎重に議論が引き戻されたというふうに私は見ております。もちろんWHOの在り方に関わる重要な問題ですので、時間をかけて討議されるべきとは思っております。


 さて唐突なようですが、私は「平和」という概念もこの「健康」と同じような定義づけの難しさを抱えていると考えます。つまり平和とは「戦争のない状態」と単純に言うこともできますが、それだけで済ませることができない面を持つのではないかということです。平和にどうコミットするかは、平和をどう定義づけるかに大きくかかってくるのではないでしょうか?


 今の日本の平和運動の多くは、単に平和を「戦争のない状態」としてそれ以上考えていないのではないかという感想も持ちます。これについては下記の古森義久氏のコラムが一つの示唆を与えてくれると思います。


一方、それとは対照的に戦後の日本では、国にとっても、人間集団にとっても、いちばん貴重なのは平和であると、教えられてきた。その平和絶対優先に少しでも疑義を呈せば、「軍国主義者」というような糾弾を即座に受けた。「平和」は「平和」でも、独立や自由がない場合にはどうするのか、というような議論はタブーだった。


 だがホー・チ・ミン主席を最高指導者として仏、米国、そして南ベトナム政府と戦ったベトナム革命勢力は、明らかに平和よりも独立や自由が貴重だと考えるのだ。そしてその思考に沿って、平和を犠牲にして、闘争を続けたのだった。


 ところが戦後の日本では、「国家や民族、社会にとって平和より大切なものが存在する」という考え方は犯罪的とされてきた。私は、その日本的な平和至上主義とはまるで正反対の考えをとる人たちがいることを、このとき頭をガーンと殴られるような衝撃でまたあらためて知らされたのである。陥落したサイゴンでの忘れがたい体験だった。


 国際平和という状態は、単に国家間で戦闘がない状態と考えていいのでしょうか? たとえば一つの国が他の国を武力で支配している状態も平和なのか、また一つの国の中で人々の自由がなくても国家間で争いがなければ平和なのか、他国に関して性善説を採り軍備を持たない状態にならなければ平和ではないのか…さまざまな観点がそこにはあると思います。
 そしてそこまで踏み込んで平和を考えなければ、平和というものにどう関わりどう行動すべきかは見えてこないのではないでしょうか? もちろん積極的な定義を考える段階では意見の相違も明らかになってくると思いますし、今より数がまとまらないことになるかもしれません。
 しかし妙に曖昧さを残して、しかも部分部分で二重基準がほの見えるようないい加減なものは早晩行き詰るものだと思いますし、WHOでの健康定義で活発なやり取りがあったように「生まれ変わるための議論」が今の日本の平和運動に必要なのではないかと愚考いたしております。