子供の発想(塾講師の殺人に思う)

 京都学習塾小6女児殺害事件について今朝のニュース番組でも少し続報を得ましたが、まだまだはっきりした情報は出ていないようです。ただ供述の一部に、萩野容疑者が「小6女児がいなくなれば悩みがなくなる」と思っていたという発言が含まれていることは確からしいです。
 京都女児殺害 萩野容疑者 独善的恨み募る? 「一生懸命なぜ通じない」

 京都府宇治市の学習塾で小学六年、堀本紗也乃さん(12)が刺殺された事件で、元アルバイト講師の同志社大四年、萩野裕容疑者(23)が、調べに「(指導を)こんなに一生懸命やっているのに、なぜ通じないのかと思った」と供述していることが十四日、分かった。府警は、指導がうまくいかず、独り善がりの恨みを募らせた萩野容疑者が、殺害で悩みが解消されると短絡的に考え、犯行を計画したとみている。


 調べなどでは、萩野容疑者は平成十五年十一月から京進宇治神明校に勤務。「教え方がうまい」と児童にも好評で、塾側も「熱心」と評価していた。しかし紗也乃さんとは反りが合わず、母親が今年八月以降、「うちの子だけよくしかられる」「面談の時間が長い」と塾側に講師の交代を要望。萩野容疑者も「学習指導面がうまくいかない」と塾の日報に記入していた。


 萩野容疑者は調べに「歯がゆさみたいなものを感じた」と供述。「トラブルで悩んでいた。紗也乃さんが消えれば苦しみから解放される」とも話していた。
(後略)
産経新聞社 2005年12月15日 (木) )

 感情的で突発的な傷害や殺人は別にして、思い詰めた挙句の殺人の動機にはこうした短絡的な理屈の脈絡が付き纏うものだとは思いますが、これは「異常」なのではなく「子供の発想」なのではないかという気がします。歪んだ性向とか特異な発想ではなく、そこにあるのは思慮の無さ・短絡といった子供の頃には誰も一度は通ってきた思考法なのではないでしょうか?
 私情で人を殺すとき、それは通常の理性に照らせばほとんどの場合当然「正常」なものではないはずです。しかし異常心理だからと言ってそれをすべて免責するわけにはいきません。特に萩野容疑者の動機のような短絡思考の脈絡は、ちょっと考えれば「その塾を辞める」などの方法で回避できるわけですから、たとえその塾に就職の意志があったなどの状況を考えても、女の子の命と自分の都合を天秤にかけて後者を選ぶということに他の人の納得など得られません。それを比べることすら傲慢で自己中心的です。
 自分のこと中心にしか物事を見ることができないというのも、多くの場合思慮不足な子供の発想ということができるでしょう。それはもしかしたら思考の一時的な退行なのかもしれません。通院歴云々で罪を免れるような問題ではなく、普通に責任を取るべき行為としか私には思えないのです。

余談

 子供の発想は常識や因習に囚われることなく、時に大人を驚かせるすごく良い発想ともなります。ただしそれは思慮のなさと裏表の関係でもあって、ストレートにお馬鹿なこととなるときもあります。ですから(言わずもがなですが)子供の発想の素晴らしさに感動することがあるとしても、それを無条件に評価することもできませんし押し通すこともできません。


 その1

 Aさんという40過ぎの女性とB君という20そこそこの男性がいました。AさんはB君が好きですし、B君もまんざらでもない様子。でもAさんは年齢の釣り合いとか将来のことなどなどを考えてB君に心のうちを語れません。
 そこにあらわれた子供が「なんで黙っているの?好きなら好きって言えばいいじゃん」
 その言葉に動かされたAさんはB君に告白し、相思相愛でめでたしめでたし…

 その2

 C君という若い男性とDさんという年上の男性上司。なにかにつけてDさんはC君を馬鹿にします。本人に言うだけでなく、C君の評価を下げるようなことを周囲にも触れ回っている様子。C君はDさんに抗うことが得策ではないと自分を納得させ、数々の仕打ちにも黙って耐えていました。
 そこにあらわれた子供が「なんで黙っているの?嫌いなら殺しちゃえばいいじゃん」
 その言葉に動かされたC君はDさんを殺害し、もちろん捕まってバッドエンド…

 この二つの子供の発想は同レベルのものではないでしょうか?


 さて上記の単純化した話はただの思いつきですが、ここにあらわれてくる子供はもしかしたら私たちの思考の中にずっと残っている存在としてあるのかもしれません。それは私たちの頭の中で、時折「天使・悪魔」のようにささやきかけるのです。

さらに蛇足

 国家や宗教が争いの種になってきたという認識はまっとうなものです。しかしだからといって国家や宗教が無くなれば争いはなくなる(あるいはその分だけ減る)という発想は、私には子供の発想に思えます。その純粋さ、ストレートさに打たれる方もいらっしゃるかもしれませんが、それは思慮が足りないというほうではないでしょうか?
 なぜ国家や宗教が存在するのか、その意義は何か、それが無くなってしまったときにどういう状況が招来されるのか…そういうことに思いをいたせば、単純にそれを無くすことを夢想することはできないと考えます。
 その理想とするところが「文句のつけようがないユートピア」であったとしても、そこに至る道筋が間違っている、あるいは何も道筋を考えていない、などの場合は、私にはそのユートピアを積極的に評価することができません。少なくとも私は、目的が正義ならば手段としていかなるものを用いても良い、という発想には与したくありませんし…。