過剰な意味(夢を持つこと)

 憂鬱なプログラマによるオブジェクト指向日記さんの17日の記事、「意味よりもリズムで」から部分を引かせていただきます(まだの方はぜひ全文を…)、

働くことの意味を考えて
 おそらくどんな人でも、「自分は何のために働くのか」と自分と仕事の意味を考えたことがあるだろう。仕事を通して自分の価値を見出したり、自己実現を図ろうとする。自分の子供に対しても、将来の夢を将来の仕事と重ね合わせてしまうことが少なくない。子供に将来の夢を聞くことは、将来つきたい仕事をたずねている。


自分も忙しく働いてはいると思うが、正直なところ仕事にもっとやりがいを求めたくなる時がある。もっと価値のある、意味を見出せる仕事がしたい、と思ってしまう。そんなことを考えなければ、今よりもずっと楽に仕事ができるのだが。


ニートの心
ニート研究で有名な玄田有史氏は、ニートは働きたくないというよりも働く「意味」に縛られて、働き出すことが出来ないと繰り返し述べている。

 過剰な意味という病が、社会を重苦しく覆い続けている。ニートと呼ばれる存在は、働くことに無気力なのではなく、むしろ働く意味にがんじがらめになり、動き出せなくなっていると考えたほうが実際に近い。
玄田有史「意味過剰の時代に」中央公論新社中央公論』2005年12月号)

 人は意味を求めてしまう動物だ。だが、意味を過剰に求めすぎると、今度は身動きがとれないし、考えても苦しくなる。世の中の多くの仕事はそれほど意味なんてないし、やりがいなんてない。自分にしか出来ない仕事は皆無に近く、自分らしさを発揮できる仕事も少ない。


 仕事に無関心だからニートが増えるわけではなく、むしろ仕事に強い意味を求めてしまうから、働けなくなってしまうのだろう。(もちろん、働かなくても生きていける環境があってこそだが)

 さて、とても示唆的な玄田氏の意見が紹介されていて、この後「意味よりもリズムで」という本論に入っていくわけですが、取り敢えずここのところで「過剰な意味」に縛られる人々というのは、私も少し違う面から考えていたところでした。粗雑なアイディア程度ですが、ちょっと書きます。


 80年代あたりからでしょうか、やけに曲の歌詞に「夢」というキーワードが多くなってくる印象を持ちました。ちょうどカラオケの勃興から興隆に立ち会ったとも言える年回りですからそれなりに…、統計はないのですが感覚的にそう思っていました。
 もちろんポジティブに「夢を持とう」というのもわかるのですが、あまりにも「夢を持て」というメッセージが多く繰り返されると、それは強迫的に「夢を持たねばならないのだ」という押し付けになってしまうでしょう。またその「夢」という言葉が、一部では単に不満な現実から眼を逸らすための道具になっているような気もしていました。夢があるから今はこんなでもいいんだ、という逃避ですね。そういう場合には実際に夢の実現に向けて努力するというよりは、「夢に向かっているんだ」と自分に対して納得させる程度の言い訳みたいな行動しか取らないことになりがちでしょう。実際に夢に向かってみてそれが不可能だと実感させられてしまったら、現実から逃げている言い訳がなくなってしまいますから。いつまでもそれを言い訳として通用させるためには、向かっているというアリバイがあればいいだけで、むしろ積極的に向かってはいけないという状況があるのでは。


 なぜその頃からなのか。あるいは私が知らないだけでその前からなのか…。これを何らかのアイディアと結びつけて語ることができたら、それはきっと興味深い考察になると予感しているのですがなかなかうまく考え付きません。
 たとえばそれを、故郷を離れて都会で身を立てた人々が親になってきた頃、というのと結びつけて考えたこともあります。地方地方でそれなりに暮らすというそれまでのコモン・センスを破った後ろめたさを、故郷に安住するという人生モデルはもはや古いとするために、夢(立身)というものの称揚に走ったのではないか…などという筋立てですね。でもこれは検証しようがありませんし、故郷を離れて立身というモデルは明治以来あったものでもありますから、今ひとつかなと。
 結局何も考え付けていないのですが、ただ欺瞞的な「夢」が増えてきていたという感触は何となく信じていました。そしてこの玄田氏のニート論です。これで、言われてみれば「夢を持て」というメッセージは自分が為していることに過剰な意味づけを要求するものかも、と思い至ったのでした。


 「夢」は自分が抱えている現実を超えたところにある何かを示唆します。現状に満足し、あるいは現実に絡め取られていればそれが意味を持つことはありません。ですがここには一種の転倒があり、「夢を持つ」ことが先に是とされるならば現実に安住することは非とされるより他にありません。溢れ出るものがあってこその夢なのに、溢れ出ること自体が「善きこと」と認識させられてしまうのは、おとなしく暮らすのを幸せと感じるような人たちにとって不幸でしかないかもしれません。必ずそこに歪や失望が生れてしまうでしょう…。


 ニート的なあり方をする人には、もしかしたらこの欺瞞的な「夢」を強いる何者かに対する反抗があるのかもしれないと思います。騙されたくない、でもそれに変わるものも見出せないという状況がそこにありはしないでしょうか? 世の中は変だと思うような感受性の強さが、あるいはそうした状態を招いてしまっているのではないのかなということも考えたりしています。


 いずれにせよ、生れた土地で、身の丈にあったことをして、何事も無く人生を送るということに関して、それが不当と思えるくらい「望ましいと思われない」ようになっているのはおかしいように思えます。夢が無いということが、相手に投げる悪口となるようではいけないんじゃないかとも。ただこういう社会の風潮というものは、そこから超然としていようとするのが心底大変なことだとも思えますから、ある種の人たちにとっては本当に生きにくいだろうなとそう思い遣るのがせいぜいでもあります…。