わたしにとっての日本

 怠け者の節句働きよろしく今朝は6時頃に起きていろいろやっていましたが、そろそろぜんまいが切れてしまいました。ということで新年を迎える準備はもうほとんど終わりということにして、今年最後の日記を書いてしまおうと思います。
 今年四月に日記を書き始め、なんとか250日ほど書いて参りました。コメントやトラックバックをいただいた方々に謝意を表します。またたまたまお読みいただいた方々の忍耐力にも感謝いたします。ブログと言うほどのものでもなく単なる公開の日記みたいなものではありますが、書いたことのプラスマイナスを考えると、いただいたものの方が大きかったような気がいたします。


 最後に掲げるお題は、コメントをいただいたこともありますSchwaetzerさんの記事「年の最後に、わたしにとっての「日本」・・・手品を真に受けたりできないんです」に「インスパイア」されて、ちょっと書いてみようと思います。


 Schwaetzerさん曰く

「日本」とかを主張するときに、その意識を成立させる基盤には「歴史性」がある。それが最もよく表れたのは皇室典範改正の議論だった。「日本」を成立させる意識が「歴史」と「文化」に求められるのが、通例ではなかろうか。(中略)


まず、自分自身、知らなさ過ぎた。日本人なのに日本のことが分からない。勉強はするし、それは面白いのだが、知らなさ過ぎるのはいかんともしがたい。はたして、そういう自分に日本を主張する権利なんぞあるのかと思った。とはいえ、それは自分のことなので、それはそれでいい。


一番がっかりしたのは、「日本の伝統」なんてとっくに変質してしまっていることだった。(中略)


結局、私がわかったのは「日本」を成立させている実質的な基盤がない、ということだった。そんなものはどこにもありゃしない。明治国家が「日本」を必要としたためにそのようなフィクションを作り上げただけだった(ということを、勝海舟が思いついたんだろうと思っていたんだが。違うのだろうか)。当たり前といえば当たり前の話に遅まきながら到達したわけだ。

 Schwaetzerさんのこの修辞は、手を変え品を変え何度も繰り返される主題でした。それはそれで一つの筋ではありましょうが、あえてこの主題に異を唱えさせていただくことで今年の締めくくりにいたしましょう。


 伝統というものは作ろうとして作られるものではなく、気がついたら伝統になっていた…という類のものです。以前にも紹介した言葉ですが「伝統とは起源の忘却である」とは私の好きなフレーズで、伝統を相対化してみる視点をいただいております。ただし、それが相対化で留まって良いのかということは常に考えてみるべきだとも考えます。


 敢えて言いますとSchwaetzerさんの言葉の射程は、無自覚な伝統主義者といったあたりにのみ向けられているのでしょう。そしてそういう方々はそれほど多いとも思えないのです。伝統を何も考えずに有難がっている向きにはその言葉は衝撃にもなりましょう。しかし伝統を尊重するという姿勢は、そういう人々だけが持っているものではありません(もちろんそれはご存知のはずですし、レトリックの後ろではSchwaetzerさん御自身が伝統に愛惜をお持ちとも見えます)。


 ただ伝統だからとそれを有難がる態度は、ただ新しいからと古きを捨て去る態度と同レベルでしかないのは自明でしょう。どちらも無自覚に何かに寄りかかっているだけです。それはとるに足らぬ立場です。伝統に意味を見出し、それを惜しむ態度の範疇はもちろんそれに留まるものではないと思います。


 また御説の筋立ては、人間にとってのフィクションの意味をあまりに軽視しすぎかとも見えます。その国を成立させている「実質的な基盤」などどこに求めることができるでしょう。それが伝統であれ理想であれ、国籍以外のすべてはフィクショナルなものであり、だからと言ってそこに意味がないわけではありませんし…。

もし基盤があるとすればそれは日本政府であって、判りやすく言えば国籍としての日本人のことだ。国籍が作り上げる日本人という概念を私は所有しているに過ぎない。そして、その概念は、一個人であったり人類であったり故郷の人間であったり云々というなかの一つの属性でしかない。


つまるところ「愛国心」の是非以前に、「日本」という概念そのものに歴史的文化的な実質があると考える、その時点ですでに錯覚している。もちろん、日本人という国籍を持った人間であるという意味では実質があって、その限りでは問題がない。が、しばしば歴史的文化的な実質があると錯覚した上で議論が進む場合が多い。皇室典範改正の話もその一つでしかない。

 相対化してみれば属性の価値がひとしなみに同じになるわけでもありません。もちろん人によって軽重は異なりますが、愛国心を相対化だけで無意味にできるわけもないでしょう。
 そして今、現実に生きている日本という国を「根拠がない」と否定しさることなど誰にもできはしないはずです。歴史的文化的実質はあるんじゃないですか? ルートを探って、それが他に求められるとして、それで実質を否定するというのは(レトリックとしてはありかもしれませんが)あまりに乱暴で性急な結論です。
 たとえばお茶が日本にやってきたとき、それは晨旦文化の新奇な輸入でもありましたし養生法でもあったわけですが、それが幾人かのこの国の人の手を経て定着し伝統となったことに今さら何を言うことがありましょう。そういう形でのルーツ探しは、伝統に何ら影響しないはず。

やっぱり思うのは、そういうふうにネタが割れてしまっている、手品のタネを知っている人間からすると愛国心云々というのはとてもうさんくさい、ということだ。人間の自然な感情、みたいなかたちで語られると余計に警戒する。それって、そういうふうに教育された、教えられた結果の感情で、自然な感情じゃないよと思う。(そもそも人間の自然な感情ってどの程度まで認められるのだろうか?)


なんで警戒するかというと、ちゃんとタネがある手品なのに「これは奇跡だ」とかびっくりされているような感じがすると言うのがひとつ。それだけではなくて、本来は根拠のないもの、フィクションであるものにあたかも根拠があるように錯覚をするところから、えてして神学というか宗教論争になりがちだから警戒をする。結果として、「反日左翼」だって「親日保守」だって同じだというのはとっくに書いた。

 伝統の起源を探ったからと言ってそれが「手品のタネ」であるとは思えません。伝統とは言ってみれば何代かに渡る人の生き方の謂でもありましょう。それがもともとどこからかいただいたものにせよ、その生き方の価値が減じるわけではありません。
 もともとこれを「愛国心」に対する疑念のネタにするのが筋悪だったのではないでしょうか。人の諍いがほとんどフィクショナルなものに基づくとしても、それを虚構だからと言っても争いがなくなるとは思えません。形而上的なものに限らず、諍いが心に発するとするならば私はその多くがただの観念ではないかと考えます。しかしこの観念こそが根深く人を捕らえて離さぬものでもあろうと…。
 理性で考え、合理的に判断すればいずれ迷妄が消えるだろうとする啓蒙主義的立場は私は採りません。


 日本の伝統を大事にしようとする心は、なにも日本を絶対化する心と同じとは言えないのです。おっしゃる「実質」を持っている国などどこにありましょう。皆過去の神話や未来の理想にフィクショナルに支えられて今を生きているだけだと思います。
 伝統を相対化することは可能です。しかし相対化した上でそれを尊重するという立ち位置も可能ですし、私はそういうところに立ちたいと思ってもいます。「たかが〜されど」という構図でもありましょうか。


 というように書いてはきましたが、むしろこういうことを言うのは釈迦に説法、言わずもがななのだとも実は思います。たとえばSchwaetzerさんが「守るべき日本、日本文化とは、一体なんなのか」で書かれた文を見ても、まずそう見えていました。

守るべき日本とか、守るべき日本文化などという言葉を見ると、私は吐き気がする。むかむかする。なぜならば、そんな日本はとっくの昔になくなったからであり、にもかかわらず日本を守れ、日本文化を尊重しろというあまりの無邪気さに、脱力するからだ。


私は言いたい。


あなたが言う、守るべき日本文化とは、一体なんなのか。守るべきものなんて、はたして本当に残っているのかどうか。その実態は一体なんなのか。そして、その日本文化はいついかなる経緯で成立したものか。


わたしは、そういうことをいつも感じながら、大事にしなければならないものとは何か、考え続けているつもりである。

 と言いつつも、金山寺みそやその他の「守るべき日本(の食)文化」に対する愛惜を滔々と述べられているではありませんか。
 万人が無条件に認める「守るべき日本文化」など無い、とは思います。しかし「守るべき文化」が金山寺味噌であったり、塩昆布であったり、暖かい銀シャリであったり、能や狂言であったり、仮名遣いであったり、寺社仏閣であったり、奥床しい挙措であったり、和服であったり、和歌であったり、奥の細道であったり、桜であったり、畳であったり…というのはその場その場の各人に於いてあると考えます。


 それはフィクションかもしれませんし、どこか他のところに淵源を持つものかもしれません。しかしそこに見られる「生き方」に対して、何か自分と共有されているそのものに対して、私は無意味とはとても言えません。Schwaetzerさんもそうおっしゃっているわけではないでしょう…。
 むしろ動くことの無い文化は半ば死んだようなものかもしれないとも考えますし、文化やら伝統というものも動いているものです。今の私と昨今の若い人で何を大事に思うかに齟齬もありましょうが、そこには矛盾はありません。もともと伝統はそういうものだと思っています。


 さて、それでは「わたしにとっての日本」とはどこにあるのか…。それを書くのは来年の話にいたしましょう。さすがに大つごもりまできてこう言っても、鬼は笑わないでくれると思いますし(笑)


 他意があるわけではありませんが、一時期の中断後のSchwaetzerさんが誰かに(あるいは何かに)絡みたがっていらっしゃる気配は感じておりまして、私では役に足りないとは思いつつ最後の最後で応答してみたくなった…ほんの気紛れと言うものです。


 皆様、どうか良いお年を。