責任というもの3

 人が社会的生き物でなければ、おそらく責任の観念など発達しなかったでしょう。責任というものはあくまで人と人との繋がりの中にあります。極端な個人主義が存在するとしてそこに責任感を想像するのは難しいですが、そういうものはあくまで思考の中にしかないのではないかと考えます。
 自分さえよければいいという考え方がないわけではありませんが、それは時折場面場面でもう一つの基準として登場するだけであって、基本的に「自分だけ」を貫徹したためしはないでしょう。どんなに自己中心的な人間でも必ずその生き方を支える人間がいるわけで、「一人で」生きているわけではありません。周囲の配慮にただ乗りしている卑しい生き方は主義・主張とはとても言えません。


 などなど考えてみると、人はその基底としてどこかで責任を考えずに生きていくことはできないといえるのかもしれません。だとすると残るは程度問題になるわけです。
 社会(集団)か個人かという二択ではなく、社会とともにある自分をどう考えるか。そういうことだと思います。易きに流されるのも人の常ではありますが、集団と自分の関係を考え、捉え直していくことで十分修正は可能なことではないかと。つまり広義の教育が重要ということですね。楽観的な見方かもしれませんが、そういう遠い希望を持つのも必要でしょう。


 さてJR東日本の特急事故に関してですが、
 山形特急転覆:JR東会長が辞任示唆

 JR羽越線の特急脱線転覆事故でJR東日本松田昌士(まさたけ)会長(69)は29日、山形県庄内町の現場を視察し、「事故の全責任は最高責任者の私にある。出処進退は命を預かる鉄道のトップに立ってから常に頭にある」と述べ、原因究明などにめどが立った段階で引責辞任する意向を示した。国鉄民営化で87年に発足したJR東日本で、経営トップが事故の責任を取り辞任するのは初めて。国土交通省には「事故で人命を奪った責任は重い」との声が強く、大塚陸毅(むつたけ)社長の進退も問われることは必至の情勢だ。(後略)
毎日新聞 2005年12月30日 3時00分)

 責任の取り方を傍でとやかく言うのもおこがましいのですが、天災の側面が強そうなこの事故で妙に早い決断だったという印象を受けました。それでも鉄道マンとして死亡事故を起こしたということに対し、こういう責任の取り方はあって然るべきかなとも思いましたが、記事中には何やら妙な圧力の示唆も…。


 自裁というものは、なかなか難しいものです。しかし自分の存在に職業やその他アイデンティフィカルな面で誇りを持つ方には、それが当然できるものではないかと思います。やはり正義を行うという意志には、self-respectの側面が関わるのではないでしょうか。