中世フランスにおける托鉢修道会と都市化

 ジャック・ル=ゴフによる托鉢修道会の分布に基づく中世都市の調査研究の中間報告(参照


 本論文の半ばを占める最初の節について、ざっとまとめと引用で綴ってみました。

托鉢修道士と都市についての意識

 この研究に関するいくつかの誤解が明らかになった。一つは方法論にまつわる誤解で、托鉢修道士と都市との間に関係が成り立つとしても、そこから都市の定義を導くことはできないだろうというもの。むしろそれは当然で、この研究での托鉢修道士は中世の都市現象について、数量的・空間的測定を可能にするものでしかない。都市の定義については、

私はただ、この定義は経済と社会についての第一次産業第二次産業第三次産業部門という概念に依拠する方向で検討されるべきだと、考えているだけである。つまり住民の一部で第三次産業に従事しているものが集住地域において優越的地位を保持している時、そこに都市があるといってよい。

 もう一つこの研究に対してさしはさまれた疑問に、托鉢修道士会の分布は都市によって規定されているものではないというものがあった。だがこの反対意見は、動機と原因という異なったレベルの問題をじゅうぶんに区別していない。

 動機のレベルでは、中世の托鉢修道士会の設置において、都市志向がみられないとしても、事実からみて、都市現象と托鉢修道会現象の間により深いつながりが予想されることが変わるわけではないだろう。

 だがこの反対意見によって、托鉢修道士がその修道院の設置と布教において、意識的な都市志向があったかどうかを研究することになった。

 十四世紀前半のイングランドドミニコ会士であるロバート・ホルコトは、自分たちの修道会が聖アウグスチヌスに遡るものだ、と主張するアウグスチヌス会士たちに対して反論しつつ、実際は1256年の教皇アレクサンデル四世の示唆によって、さまざまの隠修士団体が再統合されてできたこの修道会の起源について、次のように要約している。
「…そこから聖職者の共同生活についての、至福のアウグスチヌスの会則と呼ばれる会則が生まれ、のちにそれを他の多数の修道士が受容していったのである。説教者修道会ドミニコ会)もカルメル修道会もその中に数えられる。そしてはるかのちに、聖グィレルムス派や聖アウグスチヌス派の隠修士及び他の多くのものが集まって、都市在住の隠修士たちから成る一団体にまとまり、隠修士の生活とは全く矛盾するものではあるが、聖アウグスチヌスの会則を取り入れたのである。そしてその修道会は聖アウグスチヌス隠修士会と呼ばれてはいるが、アウグスチヌスがこの修道会に属していたことなど決してなかった。なぜなら彼は決して隠修士ではなかったからである…」

 隠者的生活から都市的生活への移行は、西ヨーロッパ中世文明の基礎にある対立、すなわち都市―荒野の対照関係(アンチテーズ)を反映している。それはローマ時代に本質的であり、中世末から再び主要なものとなる都市―農村の対立にとってかわっているのだ。文明化された空間対未開の空間という関係は、都市空間と農村空間に照応するのではなく、耕された空間と処女地空間―本質的に森―に照応する。この二つの空間の間には近年の開墾地、つまり「新開地essart」という折衷的な空間が存在し、そこは四世紀以来、西ヨーロッパでは聖マルタン以来、都市と荒野の間を揺れ動いてきたキリスト教にとって本質的な次元をなす空間でもある。

おそらく説教者修道会ドミニコ会)を除いて、托鉢修道会の初期における(さらにはもっと後の時期においても)緊張関係は、ほとんどすべてこの都市・荒野間のゆれ動きの中で要約できよう。聖フランチェスコは、彼と彼の修道士たちが宗教的な力を充填すべく、人里離れたところで隠棲することと、孤独のうちに蓄えられた信仰を人に広めるべく町や都市で説教活動を行うこととの間の平衡を保つことを、実行していた。

 しかし托鉢修道士が都市―荒野間の緊張を真に感じるようになったのは、十三、四世紀においてであり、それは彼らもまた都市化の運動の中に巻き込まれたからである。この都市化の運動は、西ヨーロッパの十三世紀を特徴づけるものなのだ。


 隠遁主義と都市化の対立というものが、托鉢修道会の中でも長きにわたる隠遁主義の伝統に由来する修道会を揺り動かしていた。それはアウグスチヌス会とカルメル会である。1265年にカルメル会の修道会総長になったニコラ・ル=フランセ(ガリクス)は、福者シモン・ストックの後を継ぐまで聖地で隠者生活を送っていた人であるが、彼は著書『火矢』の中で、カルメル会士が都市の方へ引き寄せられていく事態に対して不安を表明している。


 聖ボナヴェントラに帰せられている1270年ごろのテクストでは、フランチェスコ会の都市定着の理由についてポジティブに述べたものがある。これは小さき兄弟の会(フランチェスコ会)の会則に関する設問で、ある人々(おそらく心霊派spirituelsの人々)がまず都市志向を問題視して次のように問うている「修道士は世俗の喧騒からとりわけしばしば自分を引き離し、隠者生活を送るべく努力すべきものであるのに、あなたがたはとりわけ頻繁に都市や町に滞在することを習いとし、そこでほとんど享楽的といってよいような生活を保証され、騒々しくまた不敬虔に生きているのはなぜであるか」。これに対する答えとして、筆者が挙げる三つの理由とは、

  1. 「人間の教化のために」
  2. 「食物の乏しさのために」
  3. 「防護のために」

 であり、また次の質問「なぜ会士は大きくて広い家屋、豪華な礼拝堂、広大な敷地を所有したりするのか」に対しても

  1. 「業務上必要な建物が建てられているに過ぎず、また会士の食物補給と健康維持のために菜園が必要となれば敷地は広くなる」
  2. 「空間の必要性と地価の高さから、その空間は高層に求めざるを得ず、必然的に建物は高くなる」
  3. 「火事のおそれから会士は修道院を石造りにせざるを得ない」

 というような答えがそこに示されている。


 ドミニコ会の修道会総長アンベール・ド=ロマン(在任1254-1263)は、著書『説教修道会士の教えについて』において都市民への布教を最も重視する姿勢を見せ、その理由を次のように書いている。

  1. 都市は住民数がより多いので、説教はそこで行われる方が数量的にみてより効率的である。「都市は他の場所より多くの人間がいるので、他の場所よりもそこで説教を行うのが良い」。この言葉は数量への関心の興味深い表現であり、統計の時代の開始を告げる十三−十四世紀転換期において、中世人―少なくともその指導グループ―が数量的思考へ傾斜してゆく動きの中に、托鉢修道会士も含まれることを示している。
  2. 都市における道徳観念は相対的に低下しているから、そこにおける説教は質的にいってより必要性の高いものである。「そこにはより多くの罪がある」。この言葉は、都市の非キリスト教化―神話かそれとも現実か―のテーマについても考慮の糸口となる。
  3. 最後に、農村は都市を模倣するがゆえに、都市を通じて農村に影響を与えることができる。これに至ってはさまざまのモデル―宗教的モデルを含めた―を作りあげ、流布するものとしての都市に、農村が従属するというテーマの、きわめて注目すべき端緒である。「また都市をとりまく小規模の居住地は都市によって教化されるのであってその逆ではない。したがって都市でなされた説教の成果は、そうした居住地に運ばれるのであって、その逆ではない。かくて、他の小居住地においてではなく、まずもって都市において、説教による豊かな成果を挙げることに努力すべきなのである」

 こうして十二世紀以来、托鉢修道会の指導者たちは、彼らの分布の都市的性格を意識していたばかりでなく、それを布教政策の表現として見ていたことが了解されるのである。


 十五世紀はじめには、彼らは新しい修道院について、設置を予定された都市の住民数と構成、およびその都市の影響圏の拡がりに基づく経済的基礎を確保しようと配慮している。あまり近接した都市に二つの修道院が建てられると共倒れになる虞があるため、両者の間隔が5リュー(1lieueはおよそ4km)ではやっていけないと抗議した史料や、14リューは適当であると言明する教書などが残されている。またドミニコ会修道院が存在するための適合条件が、

その都市に修道院を維持するに足る社会集団、すなわち貴族、商人、富者が存在することであり、またその都市にあまりにも近いところに、他の托鉢修道院が存在しないことである

と指摘した文書も見つけられている。それでも十三世紀以来の修道院配置への配慮は、あまり明確な合理的計画性を持つものではない。その計画性は十五世紀初頭、テクストにそれが明示的になってきてから始めて意識されたものと思われる。

 この二つの時期における意識化は、二つの時代の心性の相違(十三世紀がまだ「前統計的」であったのに対し、十五世紀はすでに「統計曙期的」である)と同時に、二つの時代の都市化過程の違いに照応するものに違いない。十三世紀には托鉢修道会の計画性が、外的障害とほとんど出会わない「原始的」都市化に結びついているように見えるのに対し、十五世紀に見られるのはいわば世代交代の都市化(ペスト大流行による瀉血後の都市の再生、地方的移動)であり、また補充の都市化であって、これは十三世紀に形成された都市網の中に、新しい都市発展が付加されてくる過程なのである。ここで小都市の問題が生じてくるのであり、これに対してわれわれの研究方法は独特の仕方で迫ることを可能にする。中世後期は異論なく小都市の時代である。


 ドミニコ会が枢要な都市に修道院を設けることを重視したのに対し、フランチェスコ会はまずもって小都市網に狙いを定めていた。これは本研究で作成された地図、およびカード・グラフによる図式によっても確認される。

  1. フランチェスコ会は概して小都市、すなわち托鉢修道会がひとつしかないような都市を占めている。
  2. フランチェスコ会は概して中世後期における新修道院の設立者である。


 これらは中世フランスの二つの都市化の波(局面)を明示する史料とも考えられる。
 a) 十三世紀に頂点に達し、比較的緩やかな網の目を作り出す第一波
 b) 十五世紀のより小規模な第二波 
 後者b)は以前の都市網をなぞりつつそれを埋めるものであったが、都市配置の微妙な変化をも反映している。

この変化は生産活動に関するものであれ(もっともよく知られているのは「新毛織物」の生産)、商業ルートに関するものであれ(陸路が海路にとって替わられることによる西方移動、大市がシャンパーニュからフランクフルトに移ることによる大市ルートの東方移動)、経済地図の再構成におそらくは関係しているのである。

 そしてこの節は次の言葉で締めくくられる。

 いずれにせよ、十三世紀から十六世紀までの都市化について、托鉢修道会士の証人としての価値は今日すでに確認されたといってよい。都市化の歴史的諸局面は、それぞれ特別の「イデオロギー的枠組」を実際含んでいるものである。われわれの見るところ、こうしたものが托鉢修道会士の役割だったように思われるのである。