責任というテーマ

 昨年日記に書いていたもので、今私の考えの出発点あたりにあると思われる記述を再掲してみます。

責任

 責任は、当事者が、避けられれば避けられたあることを(自分の意志によって、もしくは過失によって)犯してしまった時に発生するのではないでしょうか?

道義的責任

 話を法的責任から始めてましょう。近代法罪刑法定主義と事後法の禁止を重要な理念として持ちます。これは、恣意的な法の適用(責任追及)を排除するために重要なものです。これらの前提のもとに、責任とは批難可能性として考えられるものです。あくまでも「責任」はルール違反という形で(予告され、それを破らない行為の選択ができた者に)のみ発生します。
 もちろんルールが完璧なものでない以上、ケースによっては不備もあるでしょう。ですが私は現時点でこれ以外のやり方で明確な「責任」を問うのは説得的ではないと考えます。神ならぬ身の人間が他者を裁くというのは非常に重い行為なのですから、説得的ではない理由で他者を責めるのに躊躇した方がよいとも思っています。


 道義的責任は、どんな場合でも誰にとっても等しく自明というものではありません。その意味で普遍的・論理的ではない面を持つと言えるでしょう。もちろんそれを自分で選択した人にとっては明らかであり論理も持ち得ます。ですが、他者にそれを普遍妥当性を持つものとして強要することはできません。


 それはある意味「内輪の論理」に支えられてあります。そして逆に言えば、道義的責任の感じ方を共有する人々がある意味「内輪」になっているといえるのではないでしょうか。
 それが内輪のものであるがゆえに、道義的責任は暗黙の了解を前提にします。様々なケースにおいて、それがどのような責任なのか、責任の適用範囲はどこまでか、程度からくる責任のあり方(量刑的なもの)はどうあるべきか、批難できる主体の資格はどの範囲か…全然明示的ではないです。


 私が危惧する点は、少なくともそれらが明示的でない場合、道義的責任を迫られる者は有効に抗弁できませんし、どこまで責任追及されるかあまりにも恣意的だというところです。


 それでもなお道義的責任という考えが存在するのは、そしてそれを自分にも他者にも問いたくなることがあるのは、道義的責任が自らの意思・選択としてあり得て、自分でもそれを自らに課すことがあるからではないでしょうか。


 私は道義的責任のレベルに自分なりの(内輪の)正しさはあると思いますが、それを超えた正義なるものが関わる次元ではないと考えます。だからこそ(自戒も含めて)それを他者に適用する(押し付ける)ことはできないだろうと思っているのです。(もちろん説得しようとすることはできますし、相手にそれを考えさせる試みは無意味ではないでしょう…)

ささやかに

 もし私の書いているものにどんな意味があるかと問われたならば、多少なりと知っている分野の紹介ができることと、上のような責任の観点でさまざまに問いを出してみること、あたりに限られてくるかもしれません。