セクハラ(補遺)

 私には環境型セクハラというもので人を裁くということが(確かに一団体内部のことではありますが)、どうにも危うく見えてなりません。「魔女狩り」という言葉で示唆した恣意的な加罰が、なんとなくの雰囲気で決められていきかねないという惧れがそこにあると思うからです。


 不法行為には個々の類型があるべき、とするのは勝手に罰が決められないようにするためですが、あえて個別の類型を持たない一般不法行為というものも存在します。日本では民法第709条の「不法行為による損害賠償」がそれにあたります。刑法ではこのような条文がなく民法でなぜ設けられているかといえば、法律の目的が異なるためとされます。つまり刑法は犯罪の処罰を目的とするため「恣意的な加罰を避ける<被疑者の人権を守る」ことが優先されるのに対し、民法では被害の救済に重点がおかれ「救済が不十分になることを避ける<被害者の人権を守る」ことが目されているのです。


 セクハラ関係の事件において「環境型セクハラ」なるものが持つ理念は、確かに被害者の人権を守るということでしょう。それはわかります。しかし被疑者に罰(処分)が与えられるという形でセクハラが裁かれていくならば、「被害者のことを考えろ」という言葉は絶対のものではなくなると思います。
 セクシャル・ハラスメントという概念自体が相当に新しいものであることを考えてみても、これを社会においてどう扱っていくべきかということについてはまだまだ議論の余地があり、けっしてもう決まったことだから異論を挟めないという段階ではないでしょう。


 大学絡みのセクハラ事件の裁判に対する考察を一つ引きます(セクハラ行為等の防止と対策より)

千葉地方裁判所判決平成13年7月30日


大学院研究科の女性院生が、男性の指導教官から性的嫌がらせを受けたことについて300万円の慰謝料が認められた事案。
この事案においても、「教育上の支配従属関係の存在」「性的意図をもって、被害者が拒絶の意思を明らかにした後もなお身体的接触に及んだ」「社会通念上許容される限度を超えた」という認定を核にしていますが、慰謝料金額が初期の事案よりも高額化してきていることが重要です。(中略)


なお、同様の事案として名古屋高等裁判所判決平成12年1月26日があり、大学の助教授が女子学生に対し、コンパの2次会のカラオケの席上、馬乗りになるなどしたことが、社会通念上許容される範囲を逸脱する行為と評価することができるとして、セクハラ行為についての損害賠償を認めたものがあります。
(強調は引用者)

 徳島大の事例は、放っておけば上記事案のようになる性質のものだったのでしょうか?