金保の犯罪

 聖神中央教会(Wikipediaの記述)

 聖神中央教会(せいしんちゅうおうきょうかい)は、韓国人の金 保(きん たもつ。日本名:永田 保、パウロ永田とも名乗っていた)が1987年に開いたキリスト教系の新宗教である。



 キリスト教プロテスタントの教義を偽った、主管牧師の金を教祖とするカルトである。表向きの主要な教義は一見保守的であるが、教祖が自己を神格化することにより教祖自身に対する恐れを信者に抱かせ、恐れの念によって人心を支配するタイプのカルトである。

 「恐れの念によって人心を支配するタイプ」というカルトのタイポロジーがどこから引かれたのかは不明ですが、いずれにせよ「キリスト教系の新宗教」ということは確かでしょう。これは「キリスト教」というにはあまりにもおかしな宗教団体(1987年に宗教法人格を取得)だったのです。
 これは金保に下された判決を伝える下記の記事からも明らかだと思われます。


強姦牧師:求刑通り懲役20年の判決 京都地裁

 信者の少女7人に対する計22件の強姦(ごうかん)、準強姦などの罪に問われた京都府八幡市の宗教法人「聖神中央教会創立者の牧師、金保被告(62)の判決が21日、京都地裁であった。上垣猛裁判長は「神に最も近い存在として畏怖(いふ)・敬愛の対象としてみていた牧師たる地位を乱用し、常習的に犯行を重ねたものであり、性犯罪事案の中でも他に類をみないほど極めて悪質」として懲役20年(求刑・同20年)を言い渡した。


 判決によると、金被告は01年3月〜04年9月、教会牧師室などで少女7人(当時12〜16歳)に、未遂1回を含め計22回の性的暴行に及んだ。「逆らえば地獄で苦しみ続ける」との説教を日常的に行い、被害者を抵抗できない状態にしていた。


 検察側は論告で「宗教上の絶対的地位を利用し、幼い信者女性をもてあそんだ。起訴したのは氷山の一角」と指摘。「被害者は癒やしがたい傷を負った。公判で被告人は争わないと言うだけで事実を明らかにせず、謝罪の言葉も全くない」と述べていた。


 公判では「謝罪の言葉がないばかりか、公判で述べるのはうそばかり」などの被害少女らの陳述書が提出された。【太田裕之】
毎日新聞 2006年2月21日 11時45分)(強調は引用者)

 教団の主宰者を絶対視させ、その人物が神に最も近い存在だとかその人物に逆らえば地獄だとか言っていたならば、これはキリスト教の名で呼ぶのははばかられる個人崇拝です。あえて探せば、カトリック教皇が個人崇拝という点では比べ得るところがありますが、教皇でさえ「神に近い」「逆らえば地獄」のようには絶対言われることはありませんし、もともと人間と隔絶した唯一絶対の神に「ただの人間」が近いなどと言う時点でそれはすでに似非キリスト教なのです。


 ただし、この意味で似非キリスト教と判断されるにも拘わらず、社会性を獲得して少なからぬ人々にクリスチャンの一派のうちに認識されているような教団もないわけではありません。「末日聖徒イエス・キリスト教会」(Church of Jesus Christ of Latter-day Saitns)などの、通称モルモン教と言われている宗教団体などはその一例です。(こちらのサイト→「素顔のモルモン教」では、モルモン教に関する歴史・社会的考察をしている書籍がフル・テキスト化されております。長いですが、興味がおありならぜひ)

「素顔のモルモン教」より一部引用

 シャーロック・ホームズのファンの方なら、コナン・ドイルの最初の作品『緋色の研究』を読まれたかも知れない。この作品の第二部は、モルモン教徒の大移動の話と、ユタ定住後の多妻婚をめぐる物語である。モルモン教徒として育てられた一人の美しい娘が、若くたくましい開拓者と出会い結婚を誓うが、大管長ヤングは異教徒との結婚を認めず、教会の決定に従い指導者の妻の一人となるよう命ずる。父と娘と若者の三人は真夜中の脱出を計画し、見張りのすきをついて山岳へと逃亡する。しかしモルモン教の秘密警察「ダナイト団」の追求から逃れることはできず、父は殺害され、娘は後宮へと連れもどされ非業の死を遂げる。生き残った若者が復讐を誓う。というような物語で、これは勿論フィクションである。


 しかし、コナン・ドイルが描写するユタの特異な雰囲気、つまり経済的繁栄、それとは対照的な得体の知れない恐怖、人々を圧倒している教会の支配の影などは、映画を見ているかのように見事であり、また驚くほど正確である。いったい作者がどのようにして情報を入手したのか興味のあるところである。当時の記録をたどれば、事実は小説よりはるかに興味深いものであった。ともかく、期せずして『緋色の研究』は、当時のモルモン教を知る恰好の入門書となっている


 金保の性犯罪がたとえ彼個人の犯罪と認められるにせよ、聖神中央教会が被害者から起された民事の訴訟で無関係を主張しているのはどうでしょう。金がつくったこの宗教団体が、速やかに謝罪と補償の道を選ぶように願ってやみません。もし組織を維持しようと思うのなら、そういう面での社会化(順応)は必要不可欠だと思うのですが…。