自由主義の基本原則

 以前から書いてきたことでもありますが、もともとの「自由主義」は、個人の活動に国(政府)ができるだけ関与せず自律に任せるべきだというところに主眼があります。そして国の干渉をあたう限り避けさせるために、基本的な原則として

 政府が個人の生活に干渉できるのは、個人の行為が他の個人に危害を与える限りにおいてである
(harm-to-others principle)

 という言葉で表される「他者危害の原則」というものがあるのです。
 言い換えるなら、他者危害の可能性が存在するということのみが政府の個人への干渉を正当化するもので、さらに言えば他者危害の危険性がなければ「放っておくべき」とするものです。
 この淵源は

 文明社会の成員に対し、彼の意志に反して正当に権力を行使しうる唯一の目的は、他者に対する危害の防止である。彼自身の利益は、身体的なものであれ精神的なものであれ、十分な正当化理由にならない。
 (James Stuart Mill, On liberty. 『自由論』岩波文庫p.24)

というところあたりに求められるとされています。


 自由主義を標榜するならぜひともこの点だけは確認しておきたいところなのですが、昨今はこの政府の干渉の範囲をどこまでにするかの点でかなり揺らぎがみられます。
 これはまず、他者の受ける危害というものの範囲が性急に拡大されてきているというところに問題があるのではないでしょうか。
 また、政府に対して「不作為」(何もしなかった)ということで批難するケースが増えてきているように見受けられますが、これは裏を返せば政府の責任の限界(つまり政府による干渉の許容限界)をどんどん大きく見積もっていることにもなるわけで、こういうケースではリベラルを自称される方々が自分の首を絞めていっているようにも思われるのです。


 もちろん国が個々人の行為に介入をできるだけ控える、という原則だけに拘るのは自由主義といってもかなり昔のもので、リバタリアニズムを標榜する政治は無いはず。昨今の政治では大なり小なり社会への政府の介入が(たとえば福祉制度の整備などの形で)行われるものとなっています。
 ただそういう状況の中でも、政府になんでもかんでもやらせようとする動きには私はあまり賛成できません。


 国にはできることとできないことが、というよりさせていいこととさせてはいけないことがあるのだと思います。理想的ではないということで国に文句をつけることは容易ですが、それが的外れになっていないかどうかは見極める必要があるでしょう。


 こうして考えてみると、ムハンマドの戯画問題に関しては、やはり政治の介入が無くて然るべきとも思えます。こういう場合には「司法」に訴えるべきだったのではないかと。自由主義的考え方では、この手の表現の問題に国が動くのは避けられるべきという原則があるはずなのです。
 でも「ナチス肯定論」の学者を有罪にしたオーストリアのやり方は完全に行き過ぎに見えます。こういう二重基準があるようでは、イスラム社会なりに理解を求めることはできないでしょう。


 中国政府が日本のメディアを抑えない日本政府に文句をつけたように、自由主義の通らない国では「心も統制するのが当然」という常識もあるようです。これは全くの筋違いだということは、政府にしろ私たちにしろ主張していかなければならないところだと考えます。そして私たちが「心の問題」への政府の積極的な介入を求めないというところを意識していくことが、自由主義を守ることになるのではないでしょうか。


 なんでもかんでも「国でなんとかしろ」と文句をつけることは、結局は回りまわって自由を減らすということにつながる…というのが今のところの私の危惧です。何か具体例が出てきたときには、またこの話を続けたいと思います。