差別を糾弾する口調

 2月25日のベイエリア在住町山智浩アメリカ日記に端を発した「差別」についての様々なやり取りがあります。諸方でいろいろな意見を読ませていただいて、自分でも少々書きたいと思わせられました。
 ただ、今日現在『ホテル・ルワンダ』は私の住んでいる県では上映されていません。何かのついででない限り、映画だけのために他府県に行くということはいたしておりませんので、私はそれを観ていないということ(というかそれに積極的に言及しない・できないこと)は初めに書いておきます。


 町山氏が相手にした方の書かれていることは事実認識で誤りがあり、それを修正しない限り多くの同調は得られないでしょう。内容的には町山氏の方が正当に思われます。にもかかわらず町山氏の上記日記にも、私は違和感を感じてしまいました。
 

 「差別」問題を語るときに糾弾口調になる方にはどうもついて行けないところがあります。他者を「差別をする者」、「差別意識を持つ者」として糾弾するとき、どうしてもそれを咎める側は差別に対してイノセントな、いえむしろ「高い」立場に身を置いているのではないかと思えるからです。
 差別問題は皆の心の問題だ、自分にもその種があることを意識しなければならないというその御当人が、自分と異なる者として他者の罪や責任を問うとき、そのおっしゃられる言葉は私に違和感を感じさせます。
 町山氏の当該記事で申しますと

 ところが、この人は、虐殺の種を抱えている自分に全然気づいていない。

 というところと

 人を差別し虐殺するのは日本人や特定の民族ではなく、まさにこの人のような人が原因なのです。

 というところのつながりの間に、実は密かな「ずれ」があるのではないかと見えるのです。


 差別は他人事だと思ってはいけない。我々はこの問題に関して局外者でいることはできない。すべての人が自分の心の中に差別の種をもっているのだ。云々…
 これを否定するつもりはありません。正論だと思います。
 しかし「誰もが例外なく差別者になりかねない」という認識は、他者を糾弾するという態度につながっていかないはずのものなのではないでしょうか? あなたも私もいつ「差別」する側になるかもしれないよ、というのは共感を求める言葉であり説得する言葉です。惧れを認識させる言葉といっていいかもしれません。 その認識は、何も私たちに特別の「高い位置」をもたらしてくれるものではないのです。


 今、目前で差別行為が行われていれば、それを正すとか怒るとかいうことはあり得ます。でもその人の認識が浅いとか、妙なことを考えているというだけで、犯してもいない罪に対して「糾弾」などということができるのでしょうか?
 というようなことを考えていますので、差別を他人事とは思わない人は、他者を糾弾できないはずじゃないかと個人的に思っております。 差別の種は誰にでもある。自分にもある。という認識は、謙虚さにつながるはずのものです。それが誰かを責めることにつながろうなどと、私の考えの筋道からは導けません。


 この町山氏の日記に始まるいくつかの議論のブランチの中で、語り口からいうと音極堂茶室のJ2さん「『ホテル・ルワンダ』が役に立たない??」とか、備忘録の徳保さんの「映画の力と馬鹿な大人」あたりの言葉が、とても個人的には好ましく思われました。
 でもこの二つの記事に向けても、やはりちょっときつめの言葉が浴びせられたりしているわけです。なぜそういう語り口で差別が語られるのか、誰かが誰かの瑕疵をついて詰問するような言葉が紡がれていくのか、そういうのばかりだとうんざりです。


 「差別」問題を語るときに糾弾口調になる人は、結局「差別」の側から密かに自分を免れさせているということなんじゃないかと、実は思えてならないのです。