差別(補遺)

 若いときに苦労した人が必ずしも人生の後半で若者に優しくないように、体育会系のしごきを受けたものが下級生に同じしごきを強いてしまうことがあるように、差別されたと感じた者もまた差別することから絶対的に無縁でいられるとは思いません。
 誰しも差別を他人事とできないという言葉は、こうした被差別者による差別という事態をも含むはずです。その意味で私はこの言葉を受け容れます。例外も正当化もできないものとして。人の性として。


 ですが「差別」の個々の事象については、誰しも罪を免れないとは思いません。個別の「差別」において、それにタッチしなかった、それを知らなかった、という意味でのイノセントは存在するとも考えています。
 当たり前に思えるのですが、たとえば町山氏が挙げていた「トルコによるアルメニア人虐殺」でも「アメリカの日系人収容」でも「黒人へのヘイトクライム」でも「ユーゴの民族浄化」でも、そして震災時の日本での「朝鮮人虐殺」でも、私たちに「有罪」と言える人はいないはずです。
 「他人事として問題を無視する」ことができない(いけない)としても、それはその問題を自分の罪として考えるということとは自ずから異なります。私が生まれる前の事件を持ち出して、お前に責任があると言われれば私は反発せざるを得ません。私がどう努力してみても、その事件を防げたはずがないからです。


 では同時代のこととして、今この世界で起きている差別について「お前はそれを防ごうとしていない」という有責性の追求をされた場合はどうでしょう。不作為の糾弾です。
 それについては、私は自分にできる応分のことをしましょうとしか返す言葉を持ちません。それがたとえば北朝鮮における50以上の成分(階級)の身分差別などについてのことでしたら、声を挙げて非難する一人になりましょう。それが日本国内における制度的な差別であれば、その制度の撤廃に動く代議士に投票もしましょう。またそれがもっと身近な自分の職場における差別であったなら、私はそれに目をつぶることはしないと約束しましょう。署名して欲しいと言われるなら、その内容を良く確かめて賛成できることでしたら署名もしましょう。必要性を強く感じたなら、さらに積極的に動くかもしれません…。


 でもそれはあくまで私自身の判断と自発的な意志に任せていただきたいことです。誰にも強制される謂れはないことと思っています。…というようなことを語り、それは責任逃れだと言われたこともありましたが、私は未だにこの立場におります。