「なぜ人を殺してはいけないのか」という言葉は誰に向けられてるの

 なぜ人を殺してはいけないのか、という問いは倫理的な規範をその規範の外に立って問うものです。
 この問いは誰に向けられているのでしょうか?


 もともとこれは自問する問いだと私は考えます。規範の中にあってそれを自明のものとするだけでなく、時に人はその外部に仮に立ち規範自体を問うという思考の柔軟性を持ちます。それは善きにつけ悪しきにつけさまざまな変化を人間にもたらす、そういう思考のあり方ではあると思います。


 しかしこれが他者に向けて問われる場合、その言葉は微妙な不快感を生むのではないかと考えます。それは何も問いかけられた者が規範意識を揺るがされるからとかいう理由ではなく(それも少しはあるかもしれませんが)、何より「殺される人」を見ていない言葉だからではないでしょうか。


 「なぜ人を殺してはいけないのか」という問いは、決して自分だけで完結する問いではありません。自殺のケースを別にすると、そこには必ず「殺す者」と「殺される者」がでてきます。そしてこの「なぜ」と口に出して問う人は「殺す者」の側に立っています。


 またその「殺す者」が問う相手は「殺される者」ではなく第三者です。
 誰か自分より上位の人に許可を得ようとしているのでしょうか。それとも単に疑問を口にしてみただけなのでしょうか。どういう場面を考えてみても、そこに「殺される者」の姿は入っていません。


 「殺される者」に関心を向けず(その人の顔を見ずに)殺すことを語る者、それは態度として不気味さを他人に与えずにおきません。それが何より不快感の原因ではないかと思います。


 虐殺という事態についてもこれが言えるでしょう。そこでは目に入っているはずの「殺される者」が自分と同じ人として見えていないのです。


 「殺していいですか?」と「殺される者」に問うたとき、そこでその人がどう答えると思うか、それは自分が殺される側に立ち「殺していいですか?」と問われてどう思うか、それを想像する能力にかかってくることでしょう。
 そしてもしそこで何の感興も湧かないのならば、私はその虚無感に恐怖します。