見たいものしか見ていないかも

 徳保さん@備忘録で「ゲーム脳問題:見ても見えない、聞いても聞こえない」という記事がありました。ここで言及されているゲーム脳に関するやりとりも興味深いのですが、私は彼の

狂人は自分が狂っているとは気付かない、という俗説がありますが、ひとつの考え方に固執する人は、他の考え方を理解できない、ということ。

 というおそらく記事の題名につながる一文に強く印象づけられました。


 これは社会心理学の分野でも言われているところと伺っています。私はこちらに詳しくありませんので、市川伸一氏の『考えることの科学』中公新書、から少し引用させていただきます*1。(興味を持たれた方はどうか以下の引用の語彙などをキーワードとしてお調べください)

 …まったく同じ情報を与えられた場合に、自分にとって都合の悪い情報に対しては、「信頼するに足らない情報である」という厳しい目で見てしまうという研究結果がある。社会心理学者のロード(C.C.Lord)たちの研究がそれである。彼らは、死刑を廃止すべきか存続すべきかという意見によって、被験者を二群に分けた。どちらの群の被験者にも、死刑が犯罪を防止する効果があるという調査報告と、そのような効果はないという調査報告の両方を読んでもらう。
 すると、被験者の考えはより中立的なものになるだろうか。実験の結果はまったく逆であった。被験者たちは、自分があらかじめもっている主張と反対の報告に対しては方法論的な欠点をいくつも指摘する一方、主張を支持する報告は良い研究であると評価する。最終的には、むしろ自分の主張をますます強めてしまったというのである。

 こういうことは、言われてみると自分にもあるかなあと…

 私が学生のころ、社会心理学の授業や教科書でよく紹介されていたフェスティンガー(L.Festinger)の認知的不協和理論を思い出す。人間の知識の中にあるさまざまの事実命題を「認知要素」と彼は呼ぶ。たとえば「私はタバコを吸う」というのは一つの認知要素である。この要素は、「タバコを吸うと太らない」という認知要素と「協和」すなわち整合的な関係にある。一方「タバコを吸うと肺ガンになりやすい」という認知要素とは「不協和」の関係にある。人間は全体として不協和を低減するように方向づけられるというのが、認知的不協和理論の骨子である。(中略)


 …人間が不協和をもたらすような情報を回避する傾向があるということを示す研究がある。先ほどの例でいえば、喫煙者かどうかということと、新聞などでタバコが肺ガンの原因になりうるという説をどれくらい読むかという頻度との関連を調べたわけである。…やはり喫煙者はそのような記事を読むことが少な目になる。
また、すでに車を買った人が、買ったあとに自分の車の広告を見るか、他の競合車の広告を読むか、という研究もあった。すでに買ってしまったのだから、広告を読むことは「意思決定の手段」としての意味はない。ところが、競合車の広告を読めば、その良いところがいろいろ書いてあるので、自分がそれをもっていないことと不協和を起す可能性が高い。そこで、むしろ自分の買った車の広告を見るほうが多くなるというのが、不協和理論からの予測になる。
私は…パソコンや家電製品では確かにそのような経験がときどきある。買った製品の広告を読んでいる自分に、思わず苦笑してしまう。

 と、このように情報に対する接触の仕方・頻度や、その情報を用いた推論、そして判断にいたるまで、私たちはバイアス(偏向)を避けられないというような実も蓋もないことが社会心理学では言われているということですね。(もっともこれらの研究はいささか古いものではありますし、現在どう捉えられているかには暗いのですが…)
 まったくこの「買ったもののカタログ」を(にやにやして)読むというのは私にも何か当てはまるもので、思わずいたたたた…

 認知的不協和理論を提唱したフェスティンガーはまた、社会的比較過程の理論というものも提唱している。私たち人間は一般に、自分の能力の高さや意見の妥当性を明確にしたいという欲求をもっている。それは他者との比較を通してなされることが多い。
自分の意見の正しさの根拠は、客観的な事実に基づく物理的真実性(physical reality)が得にくくなるほど、「みんながそう言っているから」という社会的真実性(social reality)に求めることになるというのである。

 自分を思わず知らずに多数派だと思い込んでしまうことは私にもありました。全く意識してはいなかったのですが、もしかしたら自分の論拠に不安が湧いて、そういう思い込みが作られたのかもしれません。


 でも他者に同調したり追随することにも、人間の適応上の意味はあると市川氏は述べられます。それによって私たちは「他者の経験の恩恵にあずかることができる」からです。

 …「権威ある人」の主張を受け入れることは帰納的な論証としても正しいことが、サモン(W.C.Salmon)の論理学の教科書に述べられている。

 XはPに関しては信頼すべき権威である
 XはPを主張する
 ∴Pは真である

 これは、次の論証と内容的に同等であるという。

 問題Sに関して、Xによって述べられた言明の大部分は真である。Pは問題Sに関して、Xによって述べられた言明である。したがって、Pは真である。

 要するに、統計的な三段論法という形式になっているというわけだ。


 ここに挙げられたような偏向は、どうにも私などを含め普通の人にはなかなか避けがたいものかもしれません。でもある程度その内容を意識して、時々自分を振り返るようにすれば、ある程度はこの罠に陥る危険性を小さくできるんじゃないかと、そう思いたいです(笑)

*1:ちょっと前に紹介したウェイソンの選択課題も、こちらを参考にしました