信者である権利

 essaさんがはてなに引越してきてからのエントリー
 「信者」である権利と教祖の取締りの両立は可能か?

エスは、ガリラヤ湖のほとりを歩いておられたとき、シモンとシモンの兄弟アンデレが湖で網を打っているのを御覧になった。彼らは漁師だった。イエスは、「わたしについて来なさい。人間をとる漁師にしよう」と言われた。二人はすぐに網を捨てて従った。


マルコによる福音書1:16-18


 こうやって若い人をたくさんたぶらかした教祖が、その後、何を言って何をして世界と使徒に何を残すか、そこには大きな違いがあって、いい宗教、悪い宗教というものはあると思う。


 しかし、信者にはいい信者と悪い信者はない。シモンとアンデレとオウマーの間には、何も違いはない。


 社会が悪い宗教を弾圧することは自己防衛として当然であるが、人が信者となることを規制する権利は誰にもない。そして、信者が信者となる時に、教祖がどういう人なのか「事前にしっかり確認しましょう」と命令することもおかしい。教祖は信者の評価基準を超越しているから教祖なのであって、それは信者となること自体を規制することに等しいと思う。


 信者となることを基本的人権のひとつとして認めて、教祖を監視してふるい分けするのは、随分苦しい綱渡りのようなことだが、近代的社会とは、その綱渡りをすることを甘受しようと覚悟した社会である。

 具体的には、オウムの残党は警戒し監視されるのはやむを得ないと私は考える。信者の形式的な基本的人権を守って、それを行なうことは難しいけど可能だと思う。ただし、「信者」である権利という深い意味の人権は治安と両立しないので侵害されることになる。それは、必要悪として受け入れるしかない。そこに全く矛盾がないというのは欺瞞だと思う。

 確かにある社会にとって、その存立を脅かす宗教集団と言うものはあります。その意味でオウムが日本で批難されるというのも当たり前過ぎるほどの話です。


 しかし「信者となる権利」があるなら「教祖となる権利」も当然あるはずです。教祖となって始めた宗教団体が反社会的でないとしたならば、社会の側からは何も文句がないはず。「宗教体験」をした教祖が従前の社会的規約に縛られない次元の発想をすることは往々にしてありますが、教祖だから反社会的になるはずだというのは錯誤です。プロ社会の(といいますか社会組織を補完して存在する)宗教集団はいくらでもあるものです。


 ですからこれは「信者となる権利」とまとめるべきではないと考えます。基本的人権を言うなら、それは内面の自由というレベルで語られるものかと思います。それでこそ「他者への危害」があった場合に、その外形的な行動で、社会は善悪を判断することができるのですから。


 オウムが責められるべきはその教義ではなくその行動である、というのが今の日本の重要な建前だと私は認識しています。確かに自分と異質なその思考に対して不安、他者恐怖が醸しだされるのも無理のないこととは思いますが、内面で人を裁くということは自由主義社会ではしてはならないことになっているのだと私は理解しています。


 essaさんが「宗教をナメて」いなくて「信者であることを甘く見ない」ということは伝わって参りますが(そのことに関しては強く共感いたします)、ここでは問題の立て方に若干の疑問があると思いました。