「恨(ハン)」とルサンチマンは違う

 昨日のWBCでは日本チームが快勝して、リーグ戦で二敗した相手の韓国チームを降して決勝進出を決めました。こんなこともあるんだなとびっくりするやら喜ぶやらなんですが、次のキューバ戦もがんばってください(一度も試合は見ていないんですけど…笑。何かWBCって胡散臭くて…。でも陰ながら声援は送ります)


 予選リーグ全勝で、それでも決勝に行けなかった韓国チームには残念でしょうけどルールはルールですから。お疲れさまでした。さて、そんな韓国の反応として k_milliardさん@んなアホな!が紹介されていたNHKのニュースインタビュー

 韓国が日本に負けたことについてインタビューされていた韓国の若い女性が、
「この恨みは、(サッカー)W杯で晴らす」
という趣旨の発言をしていました。

 これは私も見かけたのですが、私はここでのテロップは誤訳ではないかとふと思いました。これは

 この恨(ハン)は、(サッカー)W杯で解く

 というものだったのではないでしょうか。同じ漢字を用いていますが、「恨み」と「恨(ハン)」は異なるものと聞いています。


 恨みを返す(晴らす)という心の向きは、相手(への復讐)に向けられています。これに対して恨〈ハン〉は自分に対して向けられると言いますか、いうならば「逆境バネ」みたいなものでしょう。 まあどちらも悔しい思い、屈辱を感じた時のネガティブと言えばネガティブな心の動きです。しかし韓国では恨〈ハン〉を決して忌避すべき心のあり方とはせず、むしろ誇るようなところがあるのです。
 この頃テレビ等でもお見かけする韓国哲学研究の小倉紀蔵氏の言葉によりますと

【5・2・10】〈ハン〉とルサンチマンは異なる


 ニーチェが指摘した西欧社会におけるルサンチマンは、社会的弱者の持つ感情である。〈ハン〉とルサンチマンは、きわめてよく似ているようで、根本的に異なる。
 まずキリスト教ルサンチマンは、下位者が「他人、さらには敵のための愛に生きよ」という絶対的な真理を信じる。しかし上位者はこの真理に悖るゆえに、下位者は上位者を「悪い奴」と規定する。しかしその憎むべき敵を逆に愛することによって、下位者は最終的な道徳的勝利を得ようとする、そのような心のあり方である。


 翻って朱子学社会においても、人間は〈利〉ではなく〈義〉に生きなければならないという〈理〉を信じる。しかし現実の上位者は多くの場合、〈義〉でなく〈利〉に生きている。ゆえに下位者はこれを「悪い〈ノム(奴)〉」と規定する。
 ここまでは表面上、ルサンチマンと似ている。しかし、性善説の社会では、下位者は上位の「悪い〈ノム(奴)〉」を愛することによって道徳的勝利を得ようとはしない。なぜなら、自分が上昇しうるからである。それで、下位者は現実の「悪い上位者」を憎みはするが、本来的な「上位性」自体、〈理〉自体を憎むことは決してしない。ゆえに「悪い上位者」が〈理〉をくもらせていることを糾弾し攻撃して上位者をひきずり降ろし、かわりに自分が〈理〉を光らせて上位者になろうとするのである。王すらも革命によって打倒される。
小倉紀蔵『韓国は一個の哲学である』講談社現代新書

 と説明されています。


 私が知人の韓国女性(留学生)に聞いたところの話でも恨〈ハン〉は、たとえば相手との間に格差があって、自分が劣っていると悔しさを感じた時、その悔しさを晴らす(=〈ハン〉を解く)ために自分で一層の努力をして、それで相手よりも上に立つまで頑張るというそういうモチベーションのことを言うのだと説明を受けました。


 だから恨〈ハン〉は、私の中では「逆境バネ」とか「ハングリー精神」とかいうものと解釈しています。
 その意味で、最初に挙げたNHKのインタビューのテロップは誤訳なのではないかと思ったのですが…
(※確かに日本的心性今の日本の野球ファン、サッカーファンからすると、野球の恨をサッカーで解くというのはややお門違いにも思えますけど 笑)
(※※読み返してなんだかなと思いましたので修正を入れました 11:40)


 今の言論で用いられているルサンチマンという概念も、あまり「恨み」とかいう心根に引き寄せて考えればそれは誤読とは思います。結局、ハンと恨みとルサンチマンは全部違うものと認識していたほうが無難でしょう。