重度障碍新生児の治療停止についての補遺

 一昨日のエントリーで書いた事例の5、ダウン症候群の男児が腸閉塞の手術を受けることができずに死亡した事例ですが、この件に興味をもたれる方が多いようですので若干の補遺を記しておきます。(お調べのよすがに…)


 この事例は「ジョンズ・ホプキンス・ケース」と呼ばれ、広く知られているケースです。この事例についてより詳しい記述がある書籍からもう一度引用します。

 一九六三年の晩秋、ヴァージニア州イーストン・ショアーの病院で一人の男児が誕生した。新生児は未熟児で消化器官に異常があった。ただちにジョンズ・ホプキンス大学病院に転送され、腸閉塞が発見された。腸閉塞は手術によって治療可能であり、手術に特別の危険が伴うものでもない。しかし三四歳の母親は手術を拒否する。新生児がダウン症(候群)であったからである。母親は、出生時に医師からダウン症らしいと告げられた時、直ちに子供はいらないともらしていた。三五歳の弁護士の夫も妻は看護婦であるし、ダウン症については自分よりもよく知っているのだからと、妻の手術拒否を支持した。夫妻にとって、この男児は第三子にあたっていた。ダウン症の子供を一緒に育てることは家の他の子供たちに不公平になる、手術拒否の理由を母親はそう説明した。
 出生の段階では、ダウン症による精神遅滞がどの程度になるかを正確に予測することはできない。しかしダウン症の場合、精神遅滞とはいっても一般的には軽度である。知能指数が正常域に近いこともある。訓練を受けて簡単な仕事に就くこともできる。またダウン症児が「幸せな子ども(happy children)」と呼ばれ、温順な性格であることも良く知られている。担当医はこうした点を両親に説明し、手術の許可を得ようと試みた。だが、医師の説得は功を奏さなかった。
 両親の決定を覆すには、裁判所に訴えるという手段もないわけではなかった。しかし、病院側は裁判所命令の手続きをとらなかった。経済的、感情的に重荷を負うことになるのは家族であり、裁判所命令によって手術を強制することはできない、そう医師たちは判断した。また裁判所はいつでも両親の決定を支持するものなのだから、裁判は時間の無駄だとも思われた。ある医師はここに価値観の対立があることを認めながら、「米国型の倫理観には、……知性をもとに生命の価値を判断する傾向がある」と述べている。結局、新生児は手術されることなく別室に移され、十一日後に餓死することになった。
 (香川知晶『生命倫理の成立』勁草書房、pp.129-130)


 このケースに関する文献
・GUSTAFSON, J.M., 1973, Mongolism, Parental Desire, and the Right to Life, Perspectives in Biology and Medicine 16, 529-557.
 「自分は単なる外部観察者(external observer)にすぎない」が「この問題は深い人間的な感情を呼び起こし、まじめな知的吟味を促す」。このケースで「知性に認めた価値は過度の単純化を含んでいる」。「このケースでは、…通常の外科的治療は行われるべきであったし、ダウン症の新生児の生命は救われるべきであった」。当事者たちは「間違ったことをした(did the wrong thing)と信じる」。
・GUSTAFSON, J.M., 1990, Moral Discourse About Medicine: A Variety of Forms, The Journal of Medicine and Philosophy, 15, 295-309.


・SHAW, A., 1973, Dillemmas of "Informed Consent" in Children, The New England Journal of Medicine 289, no.17, 885-890.
 治療行為を行うべきかという問題にドグマチックな公式によるアプローチは役に立たない。各事例の状況に基づいて、人間的で愛情ある解決を見出すように努めることが重要。「すべての権利はいつでも絶対的であるわけではない」


他(重要)
・SLATER, E., 1971, Health Service or Sickness Service?, British Medical Journal, 4, 734-736.
 ハンディキャップをもつ子どもが正常な家庭の子どもと同じ権利を持つことを否定し、正常な親は異常な子によって正常な子に生じる「トラウマ」を防ぐ義務があると主張。
<脊椎二分症絡み…イギリスでは'70年代まで大きな問題だった。現在では自治体の負担による出生前診断でこの症例は激減している。<障碍を持つ子を育てる上で自治体がかけるコストより出生前診断のコストが低いとの判断〜これも実は問題なのですが…


(※ 17:06ちょっと修正)