花見酒

 はるか昔の神道の祭祀では、まず一定の聖域(あるいは臨時のマツリノニハ)を画定し、そこに木を招代(おぎしろ)として立てて神を招き降ろしました。この木は神籬(ひもろぎ)と呼ばれ、そこに鏡などの祭器がかけられたのです。祭りは夜行われ、神が迎えられるとまず土器に盛った神饌が捧げられ、続いて玉・宝器・衣類が神宝幣帛として供えられました。次に神に祝詞(のりと)が捧げられ、何ごとか訴え事を申します。そして祭りの最後には神人共食の直会(なおらひ)があり、祭りが終わると使った祭器や食器を割って地面に埋めたということです。(過去日記

 このように暫時どこかに降りていただいてそのカミに会うという形式は現在の神道でも保持しています。ご神体となるものに向かって拍手し鈴を鳴らすという行為は、カミに降りてきてもらうという儀礼行為に他なりません。
 神道の八百萬の神は「ちはやぶる」カミであり、鎌田東二氏はこれを「ち(道・血…)」を素早く(速く)行き来する無形の存在だとします。つまり神々は見えない存在であって、時折何かものに憑着することによってのみ人はその存在に会うことができるのです。


 しかし儀礼によって(言い換えれば人の側が統御して)カミに降りていただくのみならず、カミがカミの側から出現してくることもあります。それが祟りです。「たたり」は「立つあり」に由来する言葉で、神(神威)が「立つ」すなわち現れることを指します。
 もしかしたらこの語は一方的にネガティブな言葉ではなかったのかもしれません。しかしこの語が神威のタブー、聖なる場所の禁忌に人が触れたときなどに、そこにカミが現れるということを主に意味するようになった時、それは恐ろしい神の罰そのものを指すようになりました。
 でも「さわらぬ神に祟り無し」と言われるように、タブーの侵犯がなければ「たたり」はないのです。これが祟りと呪いとの最も大きな違いでしょう。ある場所に近づかないとか禁じられている行為をしないとか、そういうことによって「たたり」は回避できるのです。もしかしたら日本社会における順法精神の奥底に、こうした祟りへの畏れというものがあるのかもしれません。


 「祟り」に類似の言葉として通用している「呪い」ですが、これもまたもともとは「神に祈る(のる)」というところから来ています。この漢字は「口」に「兄(<祝)」を加えた形成文字ですから「祝」と同根と言ってよいのです。「呪」と「祝」は「まじない」という同義を今なお持ちますが、一般に人に災いを下すことを祈る場合に「呪」、幸いを祈ったりめでたいことを喜ぶ場合に「祝」が使い分けられています。
 「祝」という字は「はふり」と訓じられます。このはふり(ほうり)とは巫女や神主など神を祀る者のことでもあります。巫祝(ふしゅく)という熟語が、シャーマニックな職業を指していることからもそれはわかるでしょう。祝詞(のりと)は神に向かって述べられる言葉なのです。


 「酒(さけ)」の語源は「け(饌)」(神饌…神の食べ物)に美称の「さ」がついたものだと私は思いますが、そのカミの食べ物を「たべる」ことによって一般の人々もカミを自分に降ろすことがあったということが、日本の宗教の古層にあったのではないかと考えてもいます。

 この直会ではお互いに無理に酒を飲ませ合い、泥酔するまで続けたのではなかったかという説もあります。


 神の飲み残しを飲んで意識が飛ぶまで酔った状態、これが神人合一の状態と捉えられたのではないかと私も思います。日本語で「今日はついている」といいう言い方がありますが、あの「つき」という語はもともと「憑依posession」の「憑き」でした。「もの」がとりついて通常とは異なった状態になっていることを言表しているのです。


 酒はある意味意図的に「つかせる」ための手段と考えられていたのでしょう。

 お花見でお酒をいただくのも、あれが「まつり」であり神人共食の意味合いが込められているからではないかと思います。まつりであるだけに、皆人のいるところに不思議と集まりますよね。私は一人二人で静かに花を愛でるのも好きなのですが、「お花見気分」というものはやはり人出がある場所で得られるようにも思います。
 お花見での泥酔者になぜか皆甘いのも、直会の宗教伝統が背景があるのではないでしょうか。ただあまり急激にアルコールを摂取すると、カミに会うだけに留まらずホトケになってしまいますから、それだけは気をつけるようにしましょう。