死の意味づけ

 人間の死亡率は100%です。誰も死を免れるものはいません。
 しかしそこから、誰もがひとしなみに死ぬのだからいつ死ぬかとかどう死ぬとかは問題とはならない、とは私には思えません。むしろ死が誰にでも来るものだからこそ、生きる時間というものは限られていて、限られたものだからこそそれは貴重なのだと感じます。


 人の命を奪うということは、その限られた貴重な生の時間を奪うということです。そこにその貴重さに伍す真っ当な「対価」がない場合、私たちはやりきれない喪失感を感じるのでしょう。 無駄な死などないと思いたいのですが、突然わけのわからない者から殺されてしまうという事態に際しては「対価」としての意味を見出すのがかなり困難です。
 死を迎えた方にとってはその死がどう意味づけられるかが問題となるかどうかわかりませんが(未知生、焉知死)、少なくとも残されたものにとってはその死に意味があって欲しい、「対価」があって欲しいと願うのは当然だと思います。


 さて医療というものは、放置すれば死ぬかもしれぬ病人を治療によって助け、病を治すことができなくとも少しでも死を先に延ばすことを大前提・目的として発達してきているものです。その前提からして、当然生は死よりも、生者は死者よりも価値があるということがことになっています。
 最近の医療関係の雑誌にはQOL(Quality of life 参考)の語が頻繁にみられ、今後の医療は患者を治療して死を延ばすだけでなく、そうして与えられた生者としての人生や生活の質を高めるべき努力しなければならないと論じ始めています。これはそれだけを取れば問題がなさそうな考え方なのですが、生と死の間という側面でまだまだ考慮の余地を残した考え方であるとも思います。
 たとえば腎臓移植についてQOLが強調される時があります。腎臓障害はある程度までは人工透析によって治療され、患者はそれによって生命を長らえることができるので、心臓や肝臓の移植とは異なる性格を持ちます。しかし透析を受け続けることは、その人のQOLを著しく低下させることになり、したがって移植の方がQOLを高めるということにおいてはよりよい治療法であるという論理がそこに現れたりするのです。そこには、死に行く人間は生きている人間、生き続ける可能性のある人間のために貢献しなければならないという根本的で強烈な思想が見出されるような気がしてなりません。


 死の意味、その価値をたとえば移植医療におけるドナーとしての役割に見出すこともできるでしょう。それは遺族にとって最後のよすがになるときもあり得ます。しかし医療の側では、死の意味を死者の側ではなく、どのように生者に役立てるかという立場のみで考える傾向が大変強いです。この場合、死者の霊的存在や、死者が残した行為や、死者の生前の思い出や、残した財産や名誉が生者に役立つというのでは決してありません。あくまでも、死体や死体の健康な臓器が生者に役立つのです。しかもその臓器は、新鮮さの度合いや大きさや組織適合性が高いかどうかということが重要なのであり、臓器を持っていた死者の個人的な業績や性格や周囲の人々との人間関係などとは全く異なる次元でのみ云々されるような存在なのです。


 やはり生を考える時には、その死を考えねばならないのだと思います。あの15階から突き落とされた少年を含めて通り魔的存在に散らされていった子供たちを悼みつつ、私がそれを契機にこういうことを考えるということも、その死が決して無駄ではなかったという証ではなかろうかと考えてもいるのでした。
 事件・事故の記憶を少しでも持ち続けるということには、こうした役割もあるのですね。