リベラル清盛とコンサバティブ重盛

 波平恵美子氏が『いのちの文化人類学』新潮社、で平家物語巻第三「医師問答」について触れられています。

 清盛と重盛の間には父と息子の対立葛藤のほかに、朝廷ないし天皇に対する態度の違いに基づく対立があったことは、『平家物語』の他の段からもよく読みとることができる。そしてそれは、この「医師問答」の段を読むと、清盛と重盛との間に日本国とか日本人あるいは日本文化の独自性、優越性についての考え方の違いがあって、それに基づく朝廷や天皇の考え方の違いを導き出していたことがうかがえる。よく知られているように、清盛の隆盛を支えたのは対宋貿易によって得た富であった。宋との貿易を通して、宋の文化に対する傾倒が父清盛においては強かったのに比べ、重盛においては、それが父ほど強くはなかったのであろう。重盛にはより自文化中心主義的傾向が見出せ、それが自分の病気治療における態度でも明白である。

 なんと言いますか、この段を読めば平清盛というグローバリストと平重盛という国粋主義者がいるようで、一般に通用している独裁的権力者清盛と温厚で人格者の重盛という構図とは異なった感触が得られます。


 当時清盛の長子重盛は43歳。独断専行で皇室すら蔑ろにするように見える父に対して、保守主義のその長男重盛は嘆いています。

 親父入道相国の体を見るに、悪逆無道にして、ややもすれば君を悩まし奉る。重盛長子として、頻りに諫をいたすといへ共、身不肖の間、かれもッて服膺せず。そのふるまひを見るに、一期の栄花猶あやふし。

 わが父入道相国(清盛)の有様を見ると、道に外れた悪事を重ねていて、ともすれば天皇を悩まし申し上げている。重盛は長男として、何度も諫言しているのだが、私が愚かなので、父は忠告に心を留めてくれない。その行いを見るにつけ、(清盛)一代の繁栄はやはり危ういもの(と思える)。


 南無権現金剛童子、願くは子孫繁栄たへずして、仕えて朝廷にまじはるべくは、入道の悪心を和げて、天下の安全を得しめ給へ。栄耀又一期をかぎッて、後混恥に及べくは、重盛が運命をつづめて、来世の苦輪を助け給へ。

 権現の(護法神の)金剛童子よ、願わくは子孫繁栄が終ることなく、朝廷のもとにお仕えし続けることができるように、父(清盛)の悪い心根を和らげて、天下が平安でいられるようにしてくださいませ。栄華が父一代限りで終って、子孫が恥を受ける定めならば、この重盛の寿命を縮めて、来世で受ける苦しみからお助けください。

 熊野に参籠した重盛は、このように神に祈ります。皇室を蔑ろにすることが平家一門の繁栄に陰をさすことであるとの考え方が(これは多分に『平家物語』が作られた平家滅亡以降の時代の考え方の反映でしょうが)ここにはっきり見られます。
 そしてその願いが聞き届けられたのか、重盛は病の床につきます。しかし彼は願いがかなったのだからと療治も祈祷も受けません。この時清盛は

 所労弥大事なる由其聞えあり。兼又、宋朝より勝たる名医わたれり。折節悦とす。是を召し請じて医療をくはへしめ給へ

 病がいよいよ重態になられたとの噂が耳に入った。折も折、宋朝から優れた名医が来日している。ちょうどよい幸いと思う。この者を召して、治療なされよ。

 と重盛に使者を遣して告げますが、重盛はこれを聞き入れません。その拒否の理由とは

1 異国の医師を王城へ入れるのは国の恥である。醍醐天皇はあれほど賢い天皇であったが異国の相人(人相を見る人)を都へ入れた。それは末代までの国の恥である。賢い王が犯した数少ない誤りとして醍醐天皇の行為は許されたとしても、私のような並の人間はそのような誤りを犯すわけにはいかない。


2 もしも異国人の医師によって自分の生命が助かるようなことがあれば、我国の医術はないに等しいことになる。


3 国の大臣の身でありながら、異国からの客に会うのは、一つには国の恥であり一つには国の政道の衰えを示すものである。たとえ自分は死んでも、国の恥を思う心の方が大切である。


4 生命は天の心による。もし天の定めた自分の命運が尽きるのならばそれでよい。

 というものでした。


 その権力の源泉として日宋貿易によって富を蓄えた清盛は、対外的に非常にリベラルといえる人でした。優れた文化は優れたものとして受け入れ、そのような「自由貿易」によって利を得るのにためらいがない人だったのです。
 これに対して重盛は、自らの命さえ賭けた排外主義と自文化優越主義の主張を持つ人として描かれています。ある意味ここで重盛が主張する正義が通らなかったことにより平家は滅亡したのだと、平家物語はそうも伝えていると言ってよいでしょう。つまりは国風文化の興隆の後、清盛によって限定的ながらも開かれようとした国際交流はこの後再び閉ざされ、尊皇と排外主義がここにおいてその結びつきの端緒を迎えたということなのです。


 結局重盛は出家し、病は回復することなく臨終を迎えます。

 凡は此大臣、文章うるはしうして、心に忠を存じ、才芸すぐれて、詞に徳を兼給へり。

 そもそもこの大臣(重盛)は、容儀が申し分なく端正で、心に忠義というものを知り、才能が人に優れて、弁舌と徳行とが兼ね備わっていらっしゃった。

 と言われた、平家の次期当主になるべき方がここで亡くなってしまったのです。
 リベラルだの排外主義だのという考え方自体が、人を捉える一つの側面に過ぎないということでもありましょうか。ともあれ、この平家物語も日本というものを考える上での一つの重要な証言であることは間違いないことだと思います。