四月病?

発信箱:4月病=元村有希子

 初々しくて無邪気。新社会人は一目で分かる。通勤ラッシュの人の流れを妨げ、電車の中で陽気に騒ぐスーツ姿の若者たちが温かく見守ってもらえるのも「新人」の特権だろう。


 彼らを送り出した大学はいま、「2006年問題」に戦々恐々としている。教える内容を戦後で最も減らした現行学習指導要領(高校で03年度導入)1期生がこの春、大学にやってくる。


 学力不足は今に始まったことではない。理工系学部でも、多くの学生が高校で物理を十分学んでいない。補習しないと、本来の授業に入れない。それが深刻さを増す。


 ある大学で学生相談を担当する理工系教授が嘆く。入学式当日から相談室に駆け込んでくる新入生がいる。学科の説明を聞いているうちに「こんな大変なことができるのか」と不安になるという。講義が始まると「授業についていけない」「転部するか退学したい」という相談が増える。


 昔は「5月病」といった。大型連休が明けるころ、入学時の緊張感が緩んでファイトが出なくなる。今は「4月病」である。学力不足が心の体力まで奪っている。


 切ないのは、社会の厳しさが変わらないことだ。産業界は「基礎学力と専門性を備えた、素直で粘り強い人材」を求める。じっさい、そんな技術者、研究者たちが、チームワークで技術立国を支えてきた。


 団塊世代の熟練技術者がいっせいに退職するのが07年。その後を継ぐ人材をどう育てるか、大学は正念場だ。ここを切り抜けられなければ、今度は企業社会が「2010年問題」を経験することになる。(科学環境部)


毎日新聞 2006年4月5日 東京朝刊

 これはどうかなと思う記事です。
 確かに「2006年問題」というのは言われて久しいものであり、今年は各大学とも新入生を注視しているところではありますが、この記事には大学をどう考えるかという視点が見られません。「社会の厳しさ」が不変であるといいつつ、「大学の厳しさ」は変わっていいのかとなぜ問わないのでしょう。


 確かに経営体としての大学という側面を無視はできません。しかし同時にそれは高等教育機関としての役割を持つものです。どちらか一方を蔑ろにすることは、いずれも大学を大学として成り立たせなくなるものだと考えます。


 少子化で定員割れが厳しいと感ずる大学はこれからも増えるでしょう。しかし定員確保のため入学の水準を低くするとしても、学士の称号を与えて卒業させるまでに4年間でどうにもならないとすれば、それはそういう学生を採るべきではなかったか、その大学が十分な教育を与える能力を持たなかったかでありますから、それは困るとかいう問題ではなく恥じるべきとしなければなりません。
 大学が多くの職員・教員を抱えるところである以上、職場としての大学は経営を考えなければなりません。しかし同時にそれは「大学」でありますから、大学教育をきちんと与えなければなりません。それができないのであれば、大学の看板を降ろし他の業態に変わるべきです。


 世に言われるような、日本の大学は入る時が難しくあとは適当に四年で卒業できるところだという風評は、確かにそれらしいところがあるとしても、大学内部の大学人としては「そういうもの」と多寡を括ってはいけないところでしょう。十分な教育を与えることができずに「資格」を与えてしまうというのは、それが厳しい職種であればまず考えられないことです。国試というものがあるにせよ、医師や看護師や会計士や弁護士などなどがいい加減な教育で生み出されるとしたら、それらの人に命や財産などを預ける立場の私たちは怒らなければならないはずです。それなのになぜ大学は違うと言えましょうか。
 

 大学が経営を考えて合格ラインを下げるにせよ、その大学が大学でいたかったならば歯を食いしばってでも従来通りの教育水準を維持するべきですし、工夫が必要なら大工夫すべきです。それができないのならば、大学の看板を降ろせばいいだけ。経営のために大学教育を捻じ曲げるのは本末転倒でしかないです。


 実際は、アメリカの一般的な大学より日本の大学は初学者教育に余分な力を注がなくてすむ段階にまだあると見られています。まだまだやるべきこと、効果を期待できる手はいくらでもあるのです。単にそれを社会だなんだの所為にして、自らのやらねばならないことを手をこまねいて放置している大学人ばかりだと考えるなら、この記者は大学を見くびりすぎだと感じます。
 こんな「社会問題」風味の記事を書く暇があったら、もっと社会で目を向けなければならないことを採り上げて欲しいものです。