幸せ(雑感)

 憂鬱なプログラマによるオブジェクト指向日記さん「結婚して幸せになった人はいない?」でちょっと思ったことなど。

 「結婚=幸せ」という考えを捨てるべき。

 そりゃそうでしょうと、そうは思いますが、この記事にはいくつか議論の展開でそうかなと見えるところがありました。

■「結婚して幸せになった人を見たことがない」
 ある男性からメールをいただいた。「自分は結婚しない。結婚して幸せになった人を見たことがない」と彼は言う。


 私自身、結婚して幸せになった人は何人か見ている。ただし、一時的な幸福だったり、男性か女性どちらか一方が不幸になっているケースが多い。


 「幸せ」を人間の心の状態としましょう。その状態は必ずしも永続的なものとは言えません。人の心や気分は時々刻々変わっていきます。幸せとはそのような移ろいやすいものですから、「幸せな人」というのを「いつも幸せで、それが持続している人」と置くのには無理があります。
 むしろ「深刻に悩む状況にあるのに、気にしないで幸せ一杯に感じてしまう」という状態は「多幸症(ユーフォリア)」という疾病の症状と捉えられます。


 ですから、結婚が何がしかの幸せを人に与えるとしても、それは「幸せの永続」ではもともと無いということです。それを「一時的な幸福」と呼んでもいいのですが、一時的という言い方には単発の幸せプラスその後の長い不幸という印象すら与えられます。
 幸せは、繰り返し味わわれるものです。後になってあれは幸せだったんだと受け取られることもありましょう。それは傍から見れば苦労の連続であろうと、渦中の人が幸せと感じたということもあるのです。
 また、他者に向かって「幸せだ幸せだ」というのに普通の人はためらうと思います。無駄な反感すら買いかねません。そこまでひねて考えなくても相手に対する気遣いだってありますし、何より「幸せ」というのは話の継ぎ穂がなく繰り返すと退屈なものであるだけに、話の中でそうそう出るものではない感があります。
 それが客観的なものさしで量れないものである以上、人の話を鵜呑みにして「幸せか不幸か」ということを受け取っても何だかなあというもの。まして「結婚生活は幸せに満ちている」なんて独身の相手にそうそうぬけぬけと言うものではないでしょう(相手に結婚を勧めるつもりならば別ですが)。


 ちょっと見方を変えてみます。「幸せ」がわかるのは「不幸せ」があるから、とは言えないでしょうか。それゆえ幸せは、あまり幸せとは言えない状態にサンドイッチされてあるものだと思います。問題は、この幸せを感じる回数、あるいは深さ、もしくは質の良さ等々が「結婚」>「非婚」であるか否かです。


 これにはおそらく解はないかもしれません。基準がありませんから。ただ、結婚している人にはそれによって得られる幸せと不幸せがあり、それは非婚者にはわかり難いものですが結婚している人は非婚と結婚のおおよそ両方を知っているとは言えるかもしれません。ただその結婚状態にしても、その人だけの特殊例を知っているだけといえばそうでしかないのですが…
 「隣の芝生は青い」とも申します。私たちには時折よそ様が自分より幸せに見えてしまうもの。でも結局はどっこいどっこいだったりするのかもしれません。