権利としての乞食

 国文学の松田修氏は、弱者による自己の虚構化というものに注目しておられました。

 それにしても、己の虚構化は、攻撃よりも多く、防衛において見られるような気がする。つまり、虚構化とは、本質的には、弱者の側に属する能力といってよいのではあるまいか。
 強者に虚構化、非日常化がないとはいわぬ、威嚇、脅迫等における有効性は、弱者と同レベルまで、強者のものでもある。にもかかわらず、私はなおさら虚構化・非日常化を、本質的には、という前提条件の上で、弱者の側に属するものとみたい。
(「芸能と差別」)

 この虚構化とは、たとえば異装あるいは聖痕(スティグマ)によって弱者が弱者のままに強者に変わるといったような、ある種の関係性の倒錯であり、そこに自らの意図が加われば、これは「演技」であり広義の「芸能」と捉えられるものです。
 『麻雀放浪記』冒頭のチンチロ村でのシーン、「ばくち打ちはかたわもんには優しいんだ」という表現がありましたが、まさにその社会的にネガティブなスティグマによって、周囲が「負い目」のような気持ちを抱き、それゆえ特別扱いがなされるという場面の存在を私たちは見逃すべきではないでしょう。スティグマが一方的に「差別」「排斥」という社会的な不利益のみを意味すると考えるのは、やや浅薄な考え方だと思います。


 松田氏は「権利としての乞食」ということをおっしゃいます。それは、日本の民間習俗の底流としてあり、「乞う者に対する施す者のゆえ知れぬ畏怖に基づいて継続している権利の状態」とされます。氏は、神話伝承等の「貴種流離譚」が時代が下るにつれて「乞食化身の発想」に転化し、それが広まっていったのであろうと推量されているのです。

 「神なるがゆえに流離し、零落するという様式」が、やがて乞う者に神性を付与し、乞われて施さぬ者は、それがサワリになって種々の災いを招くという根強い固定観念を生んだのではないか。そして、乞う者が「いつの時空にも、来訪者であり、仮装者であった」神におのれを擬した痕跡を、子神としての弁天小僧の異装、育て神の役割を負った南郷力丸の組み合わせに見とることができるはずだ。
(「幕末のアンドロギュノス」)


 ただ必ずしもそこに「乞食化身」という考えを導入しなくても、たとえば「乞う者」が持つ弱者性、障碍を持つこと、もしくは社会的スティグマといったものが見せるディスアドバンテージは、場面によってはそれら弱者性を持たない相対的強者に「負い目」として圧し掛かります。そして弱さに開き直ることができた者は、その相手の「負い目」を戦略的に拡げていき、多くの譲歩を引き出すことができるのではないかと考えられます。弱者が善人ばかりではないように、相対的強者も決して悪人ばかりではあり得ないのです。
 しかしこれは近代の話に限定されるのかもしれません。そして近代以前においては、異形の者の持つ聖性と呪性は、確かに人々の中に感知されるものであったのかも。

 いったいに、彼らが道中したのは、武力で歩いたのではなく、宗教をもって歩いた。

 彼らは行く先々の家々村々を祈って歩いた。彼らは、それで易々と糊口の道が得られたのであった。もし、それらの家々村々でよくしないと、彼らは祈りの代りに呪いをかけた。山伏が逆法螺を吹くということは、後々までも恐ろしいことにされていた。山伏の悪行は近世ほどひどくなったのであったが、昔から、依頼と恐怖の二方面から見られていた。
折口信夫「ごろつきの話」、『古代研究〈2〉祝詞の発生』所収)


 いずれにせよ確かに「弱者」に対したときに私たちの心に生まれる「負い目」のようなものはあるでしょうし、それを逆手に取る弱者の虚構化というものも否定できぬものでしょう。そしてまたその弱者の虚構化に対する心理的弱さは、弱者に「扮する者」による虚構化にも脆いものであるように思えます。これを利用するのがヤクザやその類の人間による強請りたかりです。


 先の引用で触れられた弁天小僧、南郷力丸と言えば、歌舞伎の『青砥稿花紅彩画』(あおとぞうしはなのにしきえ)、別名『白波五人男』に登場する面々です。こちらのサイト(白波五人男 解説)より引くと、

序幕 雪ノ下浜松屋の場
 弁天小僧は娘に化け、南郷を伴って呉服問屋浜松屋に立ち寄る。嫁入り道具を見せてもらっているうち緋鹿子をわざと懐へ入れてしまう。立ち去ろうとする二人を番頭が呼び止め、万引きの品を返すよう説得するが、じつは二人の仕組んだ巧妙な罠。他の店で買った緋鹿子とその領収書を見せ浜松屋をゆすりにかかる。首尾よく二百両を手に入れた二人だが、たまたま入合わせた日本駄右衛門に見破られる。観念した弁天小僧は開き直り口上を語る。『知らざぁ言って聞かせやしょう…』

 この場で供侍に扮した南郷は、万引きと誤認してしまった店の者にお詫びにと十両出されたのですが、そこでこう啖呵を切ります。

 十や二十の端金で売るような命じゃねえ、百両ならば知らねえこと、一朱欠けても売りやしねえ

 これが強請りの真髄と申しましょうか、本来は犯罪者と誤認した(それも仕組んだものでしたが)その過失を詫びればいいだけのことなのに、その過失がいつの間にか「命」の問題となっています。そしてここでは過失をした者にいつの間にか「負い目」が発生し、その負い目を償おうと金銭を出すように仕向けられているのですが、一度出された金銭を突っぱね、命を持ち出すことによっていつの間にかその金額が高騰していっています。


 「自分は傷つけられたんだと」大声をあげ「どうしてくれる」と迫る者に対して、それが言いがかりであればあるほど相手は金銭を求めていると考えられますから、絶対金銭のことを口に出してはいけません。またそれ以前に「どうしてくれる」と下駄を預け、全面的にミスしたものの問題にされてしまうのも避けるべきです。それは一方的にミスした者の問題ではあり得ません。ミスとフォローは両者の関係の中で決まるもの。「あなたはどうすれば気が済むのか」と提案を粘り強く求めることです。そしてそこでもし法外な要求が出てきたならば、それは「負い目」を棚にあげてでも「納得できない」旨述べるべきです。
 話がいつの間にか「命」とか「プライド」とか「顔」とか、そういった金銭に換算できないものの話にされてしまって、それを「どうしてくれる」とやることに関しては恐喝屋はうまいものです。それで食べていますから。だから少なくともそれに対抗するためには、「金」という言葉を一切自分から出さないことです。これで相手方のマジックは半分に減殺されるでしょう。


 そうは言っても、たとえば「当たり屋」に典型的に見られるような「怪我という異装」、そしてもって行きようによってはそれと同等かそれ以上にもなる「心の傷という異装」は、人を強く動揺させるものであり、やはり私たちはどこかそこに聖性を見てしまっているのかもしれません。欠損・傷付きといったものが逆説的に人に垣間見せる聖なる在り方、聖と賤が共に持つ異常性という特権的位相については、多くの論考もなされておりますから。

奥座敷の場
 浜松屋は日本駄右衛門に世話になったとご馳走する。さらにお礼に反物を渡そうとするが、当たり前の事をしただけで気持ちだけで十分と付き返す。なんとかお礼をしたい浜松屋はそれでは心が済まないからと、日本駄右衛門の望みを聞き出す。どうしても礼と言うなら金がほしい。それも有り金残らず所望と、刀を抜く。びっくりした主人幸兵は千両箱を差し出すが、隠さず出さないと皆殺しにすると迫られる。(後略)

 「ものがあるという強み」は、開き直った弱者によって容易に「失うものがあるという弱み」に転化されてもしまうものです。こうした相手に対する態度は、個々人のレベルだけではなく、国としての態度においても考えていかなければならないものかもしれませんね。