勘違いによる自我の肥大化

 陸上短距離100m走の選手には「世界最速」の称号が贈られたりするわけですが、現在その称号はジャマイカアサファ・パウエルに冠せられています。彼が昨年6月14日に出した9秒77がその記録です。でも9'77"/100mというタイムは、秒速で10.24m/s、時速に直しても36.8km/hでしかありません。
 これぐらいの速度は、そこら辺の広めの道路でおじいちゃんおばあちゃんでも車で出しています。というより40km/hを切る速度で走行していたら、「何ちんたら走ってんだYO!」とか罵声を浴びせられるかもしれませんし、怒鳴り声やクラクションがなくてもある程度確実に後続車をいらいらさせているぐらいの速度なのです。
 しかもパウエルがこの速度を10秒程度しか維持できないのと異なり、おばちゃんの原付でさえ40km/hぐらいの速度で何時間も走り続けることができます。自分の身体を使っていないからそれは疑似体験、ということはありません。道具を使っているとは言え、確かに運転者は皆40km/h超のスピードを日々実際に体験しているのです。


 そして往々にして、自分の思い通りに加減速して車やバイクを操る運転者は、身体能力の異様な増大という感覚を得て、意識の上ではどこか超人然とした不遜さを知らず知らずに育んでしまっているのではないでしょうか。より遅い者に対しての増長です。
 自転車は歩行者に対して、車は原付や自転車や歩行者に対して、排気量の大きいバイクは制限速度を守る車に対しても「遅いやつ」といった感じの軽蔑にも近い思い上がりをいつかもつ瞬間があるのではないかと思うのです。それは明らかに勘違いなのですが…。


 「ほれ、そこどけ」「遅いんだから道譲れ」的な傲慢な態度は、自分の身体能力が(それこそ擬似的に)高められた感覚によって出てしまうものだと思います。それがわかっていて、車なんだからアクセル踏込めばスピードは出るんだから…と考えることができる人はいいとして、アクセルを踏み、自分の能力がどんどん拡大していくという勘違いに身を任せるばか者は、制限速度に縛られる自分自身にすらいらつき、思慮無くスピードを上げて行って、そしてスピードをだせる自分は運転がうまいんだ、速いんだ、強いんだ、凄いんだ…と卑小な自我を誤って拡大・肥大させていってしまいます。


 さてこの勘違いによる自我の肥大化は、私たちがいろいろな点で陥り易い罠です。たとえばブログでもそうです。職種にもよりますが、私たちは日常数百人から数千人を相手にして自分の意志を表明する機会などそうそう持つものではありません。ところがブログをやってPV数を見てみると、けっこう最初から数十人の読者がいて、それが数百人になり、千人を越え、時に数千人になったりしていきます(もちろん私には数千から万単位という日々のPV数は想像でしかないのですが…)。
 これが弱い私たち人間の勘違いを呼ばないわけがありません。いつの間にか偉くなってしまった自分、そういうものがどこかに出てしまうのでは?(これはテレビメディアなどに出ている方々ではもっと顕著なことだと思います)


 勘違いは気付けば大体解消できます。どこか大きなまちの、たとえば渋谷の雑踏を前にして拡声器で喋り、この群集は皆俺様の言うことを聞いている…快感!とか思うのは、かたはらいたいことだというのはすぐにおわかりでしょう。 車の運転も然り。ブログの読者も然りです。
 文明の発達によって、私たちは自己の能力を増幅する道具を手に入れました。でも私たちの心の在り方は、全然その道具の発達について行っていないと思います。数百年前とほとんど変わっていないでしょう。
 それだけに、勘違いして心というか自我のバランスを容易に崩してしまうのです。このことは、ぜひ自覚し自戒していきたいものだと考えています。少なくとも今日これから運転をされる方は、100m走の記録でさえ36.8km/hということを頭に入れて、周囲に気を遣った走りを心がけてみてはいかがでしょうか?