お金という言葉を使わないで格差社会を語ると…

 格差社会批判とは「生まれ」という自分ではどうしようもないものによって格差が生じ、不公平になることを許容する社会へ向けられたものです。生まれつき恵まれているもの(以下持てる者と略)と恵まれなかったもの(以下持てない者と略)とが生み出され、社会においてその格差が固定されて、持てない者はどう努力しても持てる者には届かないという構造がここで批判されているのだと考えられます。


 同じだけ努力しても、持てない者と持てる者は得られるものに違いがあります。持てる者が何の努力もせずに到達する点に、持てない者が一生懸命努力しても至ることができないのは不正義と認識する人がこの批判の道をとります。人は生まれながらに平等であるべきという考えからすると、持てない者が不当に貶められたスタート地点から始めねばならないのは不公正以外の何者でもありません。
 しかもこの格差について、商業主義に走った社会全体が「持てる者になれ」と皆に煽っているのが現状です。格差はどんどん再生産され、これでは持てない者に立つ瀬はありません。煽られて、かつそこに届かない状況が作られているとなれば苦悩は深まるばかり…。


 これに気付いた持てない者は声をあげ始めているのですが、この不正を批判すると持てる者の側からは「お前の努力が足りないからだ」とか「持てない者から持てる者になった例もある」などの反批判がなされます。もともと努力でどうにかなるという状況があるのならば格差社会などとは言わないでしょう。また宝くじにあたるような希少な例を以って格差は乗り越えられる(こともある)としても、問題自体が個人を超えた構造的なものと捉えてみればこれは的外れの批判です。
 持てる者を生み出さずにはおかない社会、そしてそれを煽る環境と、持てない者が低くみられるということが問題なのであって、もちろんすべてを個人(の努力)に還元する発想はある意味問題ずらしに過ぎないのです。
 でも持てるとか持てないとかいうことを気にするなと、現状恵まれた側からおためごかしに押し付けるのは欺瞞的ではありますが、持てない者自身が「持てる>持てない」という価値基準を捨て去ることは心の安らぎを齎すもの、個人的な解決方法かもしれません。その意味でも「持てる者になれ」という煽りだけは止めて欲しいものです。またうかうかとその風潮に影響され、持てる者を過大評価してしまうのもやめたいところ。持てる=幸せという単純な話では決してないのですから。


 ただし、そういう個人的な解決には限度もあります。なぜなら欲望とは他の欲望によって触発され作られるものだからです。社会の風潮に逆らった価値観で生きるのには大きな苦労があります。価値は共有されて始めてその意味を持つのですから。
 結局持てる持てないの差を解消することができないとすれば、せめて「持てる者」がすべてではないということを社会的価値として広めるべきなのです。決してこれは一部の人のこと、他人事とできる問題ではありません。


 生き死にが関わるのでなければ、持てるの持てないのと言っても大した問題ではない(持てなくても死なない)というような言い方にも一見理はありそうですが、持てない者が結果としてreproductionに関わることができない(もしくは非常に不利になる)のならば事は重大です。それは持てない者の未来を閉ざし、今を生きるモチベーションをも低下させてしまうことにもなりかねません。どれだけの人が持てない者と自認しているかはわかりませんが、決して社会が無視できる数とも思えないです。
 これは社会的な問題なのです。