不良はカッコイイという時代があった

 kercの日記さんの「はじまりは、「マジメ=ダサい」という偏見、かも。メモまでに。」より

 「マジメ=朝から晩まで同じことを黙々やる=出来がいい」っていう考え方が浸透して、さらに「同じことを黙々やる=自分の見た目の工夫もしない」みたいなことが同一視されてきて、結果「マジメ=ダサい」につながったのではないかと。

 ちょっと違うかなと思うところもあります。批判するとかじゃなくて、より年寄りの意見として。高度経済成長云々っていうのはまあわかりませんが、「マジメ=ダサい」という偏見があるとすれば、それは何より


 「不良はカッコイイ」という歴史的な偏見が生み出したのだと思います。


 つまり「マジメ」な人に世間がどうこう思ったわけではなくて(マジメな人は昔から目立たないものだったし)、マジメじゃない者〜不良=カッコイイという時代があったわけですね。


 「理由なき反抗」>ジェームス・ディーン>カッコイイ
 「ロック」>不良の音楽>カッコイイ
 「反体制」>革命>カッコイイ


 こうしたアンチの格好よさというものは、60年代に青春してたあたりの人から(半ば輸入品で)醸成されてきてたものじゃないかなと感じます。この流れの一応の終止符は、尾崎豊の「盗んだバイクで走り出す」あたりで打たれているかもしれません。


 もちろん主流を外れたり常識を破ったり、そうした傾(かぶ)いた美学というものは戦国の世からあったもので、俗を離れた非俗、異端が、ある意味聖化するという調子はずっと続くものでありましたが(もちろん日本だけでもない話です)、際立って「不良→カッコイイ」が浸透した時期があったということではないでしょうか。


 今「なぜ皆デモに出かけないんだ」と嘆いているおじさんおばさんには、もしかしたら「デモ=反体制=カッコイイ」という刷り込みがあって、なんで若い者がカッコイイことしないんだ(>去勢されているんじゃ?>去勢する社会は悪なんだ)という図式が成立しているのかもしれません。


 あと「マジメ→ダサい」はあるんですが「ダサい→マジメ」はあるのでしょうか?
 そういう意味で「マジメ=ダサい」というのはちょっと違うかもしれません。