取り締まりに公平を期すこと

 社説:駐車違反対策 市民の意識改革も必要だ

 道路交通法の改正に伴い、6月1日から駐車違反の取り締まりを民間に委託する駐車監視員制度がスタートする。ドライバーが対象だった反則金も、車の所有者などに納付を求める「放置違反金」に改められ、滞納すれば車検が受けられないといったペナルティーを科される。総じて、取り締まりは厳しくなりそうだ。



 問題は、取り締まりに公平を期すことだ。法の弾力的な運用が期待される場面もあるだろうが、余分な裁量は不公平を生み出す。警察庁は施行後の状況を検証した上で、速やかに実務向けのマニュアルを策定し、均質な取り締まりが行われるように努めてほしい。(後略)
 (毎日新聞 2006年5月7日 東京朝刊)

 この社説の文脈ででてくる「公平」は、「弾力的な運用」>「余分な裁量」を排した、法の厳格な適用による公平というものだと読み取れます。厳格化が行き過ぎればそれはそれで弊害も生むでしょうが、まず初めはひとしなみに厳しくして、新制度の浸透を図り様子を見ることに賛成です。広くも無い道路での違法な駐車には何度も危ないなと思わされていますし、歩道に当たり前のように停めている車には本当に迷惑しましたから。


 さて「公平」ということをいうと、「みんなやってるのに何でこの車だけ駐車違反とられるのか」と言い出す人が必ず出るでしょうね。他にも違反してる人がいるのに、自分だけ反則取られるのは「不公平」だと。
 これを私は「小学生の理屈」と呼んでいます。大人が取るべき態度では到底あり得ません。
 他のケースがどうあれ、自分が違反しているかどうかだけがこの際問題なのです。法の適用は私情を挟まないという意味で「公平」です。できるだけ漏らさずに適用しようという努力はして欲しいものですが、それができないなら「すべての適用をするな」というのは暴論、言いがかりの類でしょうね。


 「他の人も人殺しやってる」「捕まらない犯人もいっぱいいる」「何で私だけ捕まらなければならないのか」…ということが言えるとでも思うのでしょうか、そういう人は。公平とか平等とかいう言葉が、こうして歪んで捉えられていくのは嘆かわしい限りです。