うちの犬は老犬で、もはや走る(ような行動)をしても早足で追いつけるぐらいでしかないのですが、実は元気な昔からほとんどリードを付けずに散歩していました。リードは、人とか交通量が多いところに行く時や動物病院に行く時などの、ちょっと不注意がシャレにならないときだけ念のためにつけるぐらいでした。リードをつけなくても私の横とか後ろをついてきましたし、声による制止が信頼できるほど効いていました。
 普段から鎖でつないでいなければ逃げ出す欲求は出ないものじゃないかと、そう思っていたわけですが、ある時知り合いから

 物理的に縛ってないけど、心で縛っているじゃないか

 と言われて、ちょっとへこんだこともありました。


 でも今になって考えると、その言葉は何か勘違いのようなものだったでしょう。
 飼われている動物に限りませんが、自由を求め、束縛の一切無い状態に憧れるのが「本当」であるといった単純な考えがここにはあると思います。確かに奴隷状態でもおまんまが食えればいい、などという心根を肯定する気はありませんが、すべての紐帯を断ち切って逃走する心を無条件に良いものとするのもおかしい話です。
 むしろそれを動物に仮託するのは、制約のない自由をのみ望ましく思う未熟な心性かもしれません。それは自立というものに単に憧れる「若さゆえの過ち」ではないかとも見えるのです。


 うちの犬は「調教した奴隷」ではありません。彼女が逃げなかったのは独立不羈の心がなかったためではなく、私と紐帯があったからだと私は理解しています。

 飼いならす(apprivoiser)っていうのは、仲よくなるってことさ

 と『星の王子さま』で狐は言います。それは相互依存のきずなを作ることでもあります。

 あんたがおれを飼いならすと、おれたちは、おたがいにはなれちゃいられなくなるよ。あんたは、おれにとって、かけ替えのないものになるんだよ…

 「自由」の価値だけを強く感じると、絆や紐帯がいまわしい束縛にしか感じられないのかもしれません。しかしすべての紐帯を断った「自由」など、自立でもなんでもないただの索漠とした宙ぶらりんに過ぎないのではないでしょうか。
 サン・テグジュペリは『人間の土地』の中でこうも言います

 ある一つの職業の偉大さは、何よりもまず、人と人との結びつきであるかも知れない。ほんとうの贅沢は、この世にただ一つしかない。人と人とをばらばらにせぬ贅沢がそれだ。


 私たちはいろいろなしがらみ、地縁、血縁ほかさまざまな紐帯によって社会を形成しています。そこでの結びつきは、時に縛りのようなものに思えることもあるでしょう。そしてさっぱりした「自由」に憧れるということも普通にあることだと思います。
 ただしその「自由」だけが真理だと思ってしまうならば、結局は社会など成立しませんし、生きることの喜びをどこに求めたらいいのかわからない状態に陥るのではないかと考えます。絆は、それなしには人間が人間として暮せないほどの意味を持つと思うのです。索漠とした「自由」など私は求めてはおりません。


 私は私の犬を「飼いならし」ました。でも同時に、私も私の犬に「飼いならされた」のです。この紐帯があったから、私は彩りのある生活をここ十数年過ごしてこれたのだと本当に思います。心の縛り、上等です。それも一つの愛だとは言えないでしょうか。

 だけど、もしあんたが、おれと仲よくしてくれたら、おれはお日さまにあたったような気もちになって暮らしてゆけるんだ。足音だって、きょうまで聞いていたのとは、ちがったのが聞けるんだ…