話せばわかるか

 「自民党は多数決なんかやってこなかったんだ!」
 とは亀井静香氏の言葉。ゆうべたまたま途中からつけた「TVタックル」中の記録映像でのことです。小泉政権の五年間を映像などで振り返るコーナーだったらしく、郵政民営化法案に対しての委員会審議で「全会一致」の手法が採られなかったことに関して、小泉批判の一例として亀井氏の上記発言が出ていたようです。言われてみればそういう言動もあったように憶えていますね。


 実際に自由民主党で一度も多数決がなかったということがあろうはずもありませんが、亀井氏の発言は図らずも一つの本質を突いているように思います。それはいわゆる談合政治、言い方を換えますと「話し合いの政治」が根強く今までのこの国の政治手法に染み付いていたということです。


 なぜだか「話し合い」は無条件によくて、「談り合い」はダンゴーと呼ばれて悪者にされている風潮もありますが、私には両者が全く違うものとは思えません。ですから、「話し合い」をむやみに持ち上げたいとも「談合」をやみくもにすべて犯罪とする気もないです。それぞれがそれぞれの利点と限界を持つ。そういうあたりまえのところでいいのではないでしょうか。


 何気なく使われている「話し合い」というターム。これが何か「民主主義」の専売特許であるかのような偏った教え方を受けてきたような気もしますが、今思えば「話し合い」のない人間社会はいずれの地域、歴史においても存在しなかったでしょう。
 言葉を用いたコミュニケーションが広義の「話し合い」であってみれば、それはあたりまえすぎるほどあたりまえのこと。そしてその「話し合い」が、戦争とか殺しとかの最終解決手段にはなっていなかったということも私たちは歴史から学べるでしょう。


 実際に使われる「話し合い」というタームは、いくつかの中心的な意味をもって用いられていると思います。代表的なものとしてそれは議論ということを指したり、あるいは相手の話を聞く(=意思疎通の態度を持つ)ということを指すこともあるでしょう。
 議論ということでいえばそれは理を以って同じ土俵で黒白をつけることなのでしょうが、なかなか実世界で「真実は一つ!」という具合にならないのは皆実感するところではないかと思います。互いの立場が整理されるだけでも儲けもので、案外この世は理非が明確なところで動いていないようにも…。少なくとも、議論できればすべてが解決するとは考え難いのが現実でしょう。
 そういうところでも、「話し合い」という相互理解が要請される「場」に互いが乗ることによって、互いの立場に対する理解が得られたり調整付けられたりして話が納まるようになることもあります。これが議論ということではない話し合いの効用でしょうが、こちらはむしろ「談合」にそのまま直結するようなそういう面を持っているともみえます。言い換えると馴れ合いでしょうね。こういうところを考えると、頭ごなしに馴れ合いなど否定できないものです。


 何だかんだ「話し合い」を肯定的にみる人は、結構都合よくそれを考え、理非を明らかにする議論の側面や相手を理解しようとする契機の側面をそれぞれ重く考えているように思いますが、実のところ「話し合い」には限界もあり、「話せばわかる」と言い切るだけの気分にはなれませんね。
 とりとめもない話になってきましたので、このへんで…