命にかけがえがないのなら

 生命というものはなくしてしまえば取り返しがつかないのだから、刑罰としての死刑は止めようという言い方をされる方がいます(あくまで死刑廃止論の一つの説(部分)ですが)。一人一人の命の価値が歴史的にみても相当に重視されるようになってきた昨今の近代社会において、これは一定の説得力を持つでしょう。
 しかし何を以っても代え難いのがその固有の生命の価値であってみれば、「その命を返す」ことができない以上、単純に殺人(もしくは致死)の償いというものが不可能だという言い方にも同様の説得力はあります。そしてこの考え方は、厳密に論理的というよりもやや感情的に「応報」の原理をもって「殺した者は死ぬべきだ」という考え方につながるでしょう。他の形での償いに意味がないと思われれば、どうしても命には命を以って償う以外ないということにもなると思われます。


 ただし、刑罰としての死刑はきわめて社会的な制度でもあり、被害者の被害感情やそこへの感情移入だけで語ることは適当ではありません。それゆえそこには常に社会としてその犯罪者をどう評価し対処するかという視点が関わってきます。たとえば更生して社会復帰することができるなら長い目でみてそれは社会へのプラスになるかもしれませんし(そこで殺しては少なくともプラスにはならない)、またたとえば再犯の惧れが拭えないならそれは社会にとって見えないコストのリスクにもなりかねません。そこらへんはすでに被害者がどう思いどう考えるかという次元とは離れたものですね。


 先日の母子殺害事件の最高裁判断といい、直近の広島小1女児殺害事件の地裁判決といい、犯罪者に死刑を与えることの可否が問題とされニュース種になっているのは、確かに一つの側面として「被害者感情」に以前より注目が集まるようになったからということはあるでしょうが、大きな流れとしては社会が悪質な犯罪者の再犯リスクを重視するようになってきたからということがあるように思います。
 性善説を唱えない者は(建前としても)良くないという風潮から、性悪説で考えてもいいんだという転換が日本社会に来ているのではないでしょうか。また同時に「死刑廃止」論も一定の広がりを見せているようでもありますが、私にはどうもこちらの方が「借り物」の考え方であるように感じられてなりません。今ひとつ地に足がついた説得力を持っているように思えないのですが…。