コメントにお答えして

 昨日の日記にid:BluE-pInkさんから少々長めのコメント及びご質問をいただきました。大事な内容も含むように思われましたので、これ幸いと今日の日記本文でお答えかたがたちょっと書いてみます。(いただいたコメント本文は昨日の日記のコメント欄に…)


 ちょっと順は前後しますが、まず「だいたい靖国参拝は宗教行為なんですか」というご質問に対して


 もちろん靖国参拝は宗教行為であると私は認識しております。
 そもそも昭和44年から49年あたりにかけての靖国神社法案(国家護持を図るもの)の是非が問われた頃において、「靖国(参拝)は宗教(行為)ではない」という意見はいわゆる右派から盛んに言われたものですね。それは宗教行為ではなく国民として当然の儀礼だと…。これはほとんど「国家神道」の頃を思い起こさせるニュアンスを持つ発言だと私には思えます。いつぞやも書きましたがこれに対して日本宗教学会は「靖国は宗教である」旨の見解を出し、私もその意見を支持しております。


 それに絡んで「一年に数回訪れるだけでしょう。そういうのを宗教いうならクリスマスを祝う日本人の大半はキリスト教徒か。それにイスラム教以外は外面的行為がなくても信仰は維持できると思います。本当に信仰があればね。」とおっしゃるところに対して


 日本の(特に庶民の)信仰の伝統的在り方は、厳格に一つの信仰を守り他を排斥するというものではなく「重層的在り方」をするものであったということは民俗学や宗教学が明らかにしてきたところのものです。正月には歳徳神をお迎えし、祭りの時には産土神氏神、生産に携わるものはそれぞれの神さまなどを祀り、お盆にはご先祖様をお迎えして祀り、葬送儀礼は仏式で、屋敷神にもお地蔵様にも定期的にお供えを欠かさず、講を作っては遠くの社寺仏閣に代表を送り…。一神教的見地からは節操の無い信仰と言われてしまうかもしれませんが、これはこれで非常に社会が宗教的寛容性を身につけた素晴らしい例にも思われるわけです、特に昨今の中東情勢などを見ますと。で、その伝統的在り方を受け継いだ私たちもまた「一年に数回」であれ諸方の神仏にご挨拶をして平気な「節操のなさ」を持つわけですが、これもまた一つの信仰の在り方と考えられるものなのです。
 (普通の意味で)クリスマスを祝うのは、ちょうど「秋葉原電気まつり」が電気の神様を祀るのでないのと同様、ただの賑やかしのお祭りですね。靖国参拝に比肩できるのは、クリスマスに教会に行ってミサを受けることだと思われますし、それを信仰ではないなどとは誰も思わないでしょう。


 宗教の定義は非常に難しく(というよりReligionの訳語として宗教という語が適当かどうかなどの問題もあります)、それが宗教(あるいは宗教的行為)であるという自他の認識から始めて遂行的に判断していくしかないものだと思いますが、歴史的に「内面性」「内なる信仰」にのみ限定したあり方をするものはほとんど無いと言っていいでしょう。
 近代社会が要請した信教の自由という原則は、内面(思想・信条)の自由という面での信仰を基本的権利として認めておりますが、他者の権利を侵さない限り信仰の発露としての行為も妨げられるものではありません。これもまた私たちの権利であると言えましょう。ですからもし、内面だけでも「信仰が維持できるだろう」と傍でいくら思ったとしても、それを他者に強要はできないのです。
 また「本当の信仰」などというものは、レトリックとしてはあり得るものの誰にも判断できるものではありません。むしろどんな危険なカルトに対してだって「本当の信仰」を持つ者はいるのかもしれません。他者の信仰の当否を言うのはできるだけ慎むようになさったほうがよいと思います。
(実は知人のムスリムが豚肉を食べておりましたので、ムスリムがそういうことをして…と冗談交じりに申したことがあります。その時「いいムスリムか悪いムスリムかはムスリム内部の問題だ(ムスリムが決めること、でしたか)」的なことを言われまして、なるほどこういうレトリックもあるのかと感心したことがあります(笑)いずれにせよ日本を出た場面、外国の方を交えた場面では、信仰の話題にはセンシティブでなければいけないんだなと肝に銘じた次第です)


 さてそれではコメントの最初のほう、「新教の自由を首相に当てはまめのはいいかがなものか。権利は国家が国民に対して保障してること。したがって統治権力の側の首相が国民と同じだけの権利を有するわけではない。プライバシーの権利一つとってもそう。」というところに対してです。


 ここは議論がわかれるところだと認識しております。ただ私は人権を重視する立場を取り、公務員と言えども基本的人権にむやみな制限はかけられないという考えでおります。クリスチャンである大平元首相が教会に行くのを問題視した方がいらっしゃったでしょうか? ただただ政治的文脈で靖国だからと妙な横槍が入っているのではないでしょうか?
 私が考える基準線は「公費の支出」というところあたりでしょうか。ただ首相の場合、公用車をつけるなとかSPが付くのはおかしいとまでいうのは「為にする議論」のような気がしてなりません。それは公務の間である以上殊更問題視しなくてよいと(今は)思います。しかし特別に国庫からお金を支給するとかいう段になりますと、それは止めたほうがよいと考えるものでもあります。
 プライバシーに制限が設けられるということと基本的人権を制限するということは重ならないでしょう。公僕という言い方もありますが、公務員は奴隷ではなく、彼もまた国民の一人なのです。


 BluE-pInkさんが少々「宗教」に対してネガティブな方に思われましたので、そこらへんに対する「言いたいこと」を少々書かせていただきました。こういう機会をいただけたことは幸いだったと思います。ありがとうございました。

追記

 再びBluE-pInkさんから反応をいただき、そちらの方で続きをコメント欄(7/21)に書かせていただきました。(続きはそちらで)
 あと気が付いたらkagamiさんからトラックバックをいただいておりますね。ありがとうございます。って一度ネタにお名前を使わせていただいてたりしたので、実はちょっと戦々兢々だったのですが…(笑)