擬似原罪的戦争責任

 神奈川近代文学館とか(今中野孝次展やっているそうです)関東方面の旅行に来ていた父が帰りました。うちに泊まっていったので私の様子見がてらだとは思いましたが、昭和ひと桁の父はこちらが憶えていたよりも老けたという感じで、小さくなった背中が少し悲しかったです。


 それもあって気付くのが遅れましたが、先日の日記にgachapinfanさんからトラックバックをいただいていました。こちらが記事を書いた意図と読まれ方に齟齬があると思いましたので(もしかしたら他にもこう思われた方もいらっしゃるかと)ちょっとだけ説明を入れさせていただきたいと思います。


 gachapinfanさんがピックアップした私の日記の部分は

 半島キリスト教系カルトが日本に来て布教する時、かつての日本による朝鮮併合を「心の負い目」として意識させ追い込むケースが非常に多いということを知っておいてください。本当にそこに明確な責任があるのでしょうか? それは「原罪」でも何でもないことです。明らかな責任は、その人が避け得た行為にのみかかるものではないですか? 生れてもいない時の「責任」というものは詭弁の類ではないですか?

 というところで、ここを書いたときの気持ちの昂ぶり(といいますか勢いで書いたこと)も憶えていましたので、何かやっちゃったかなと一瞬思ったのは確かです。
 で、ここに対して

…そうした「詭弁」(つまり、あるはずのない「責任」があるという主張)は、それに惹かれる人たちにとっては相応のリアリティがある。


ですから、uumin3さんの主張するようなロジックは(とりわけ宗教に関しては)必ずしも有効ではないと思うのですね。


 もし彼らに訴えかけたいのであれば、「原罪などない」「責任などない」という主張は野心的に過ぎるのであって(もしそのような主張が簡単に受け入れられるのであれば彼らはそもそもカルトにははまらないでしょう)、せいぜいできるのは次のような主張ではないかと私は思います。
 

「たとえ原罪があったとしても、カルトによって償われるわけではない。もし原罪があるとしてそれを償いたいと思うのであれば、ほかの道を選びなさい」

 というコメンタリーをいただいているわけですが、まず第一にここで私が出した「原罪」という言葉は宗教的なものではなかったのです。それは7/18の日記で頭に残っていたような、擬似宗教的に「負い目」として強調されるような「ある種の道徳的価値観を紛れ込ませた歴史認識」のことでした。
 そして何より私はクリスチャンではなく(家は曹洞宗の檀家で)、普通よりはキリスト教系の文献などに触れる機会をもっていたとはいえキリスト教の説教的に発した言葉のつもりはなかったんですね。タームを選べばよかったのかもしれないんですが、この部分で語ったことは責任というものをめぐる以前からの考察の一端で、戦争責任を私たちが押し付けられることは妥当かどうかという議論の方に関わるまったく世俗の議論です。
(自分で戦争責任を感じる人をどうのとは申しませんが、あくまでそれは他者から押し付けられるものではないだろうということです。過去の日記でいいますと「[倫理] 有責性」とか「責任をめぐって2」とかで考えていたことの延長です。

 責任は、当事者が、避けられれば避けられたあることを(自分の意志によって、もしくは過失によって)犯してしまった時に発生するのではないでしょうか?

 そして

 道義的責任は、どんな場合でも誰にとっても等しく自明というものではありません。その意味で普遍的・論理的ではない面を持つと言えるでしょう。もちろんそれを自分で選択した人にとっては明らかであり論理も持ち得ます。ですが、他者にそれを普遍妥当性を持つものとして強要することはできません。

 といったところが、こちらで言いたいことの本義です。そして半島キリスト教系カルト(念頭には原理研究会など)が、「お前たちは悪いことをしたのだから償わなければならない」などと言ってきたときに、あまりにもメディアの多くが「日本は韓国に悪いことをしてきたから責任がある」といういわゆるつきの原罪論を無責任に垂れ流してきたため、ナイーブな若者が無批判にそれに乗ってしまったのではなかったかという疑念も持っているのです。
 メディアが作り出した「良心的日本人」であるナイーブな若者が、このカルト的宗教の口車に乗せられたとしても、それは私には主体的な判断による信仰の選択と素直には考えられません。同じ口説きが他のどの国の若者にも同じように通用するでしょうか? そういう面でこれはフェアな話ではないと常々思っているのです。


 確かに宗教的判断としてあるはずのない「責任」があるという主張を選択する場面もあるでしょうし、そこに合理性のみがあるべきだとは絶対に言えません。仰るとおりかと存じます。
 しかしもとから「擬似原罪」を刷り込まれて、その教義の判断以前の問題として「負い目」を負わされているような状況は、私は絶対に無くすべきだと信じます。そして「良心的日本人」とやらを生み出した言論で、その言葉に何がしか影響されて、そういう遠因があってカルトに入ってしまったものに責任を取るものなどおりません。だから大人としては、声を大にして「そういう原罪などないんだよ」と逆向きの言論を言ってあげたいと思っているのです。どれだけの効果があるかは量りかねますが、できることから何かやろうということで折に触れこの責任論は書かせていただいております。


 もともとは私の拙い言葉遣いで生じた誤解だと思いますが、説明させていただければこんなところです。採り上げていただきありがとうございました。(おかげでこの題材でまた語ることができました…)