右翼・左翼(続き)

 (7/24の日記に続けます)
 さて一つの作業仮説として、次のような理念化はできないかと前回考えてみました。

 サ派というのは、現在の国家のあり方に問題がある(昔も今も満足できる状態にはない)という認識を持つので、様々に生起する問題の理由や原因を「内部」からのものに求める。すなわち内的帰属(internal attribution)による説明をしがちなグループである。

 ウ派というのは、もともと集団としての国家に問題がない(あるいはかつては良かった)という認識を持つので、様々に生起する問題の理由や原因を「外部」からのものに求める。すなわち外的帰属(external attribuiton)による説明をしがちなグループである。

 この仮説的類型からちょっと考察をすすめてみます。


 ここに出てくるサ派が最終的に理想とする在り方は、「自分(内)に厳しく他者(外)に優しい」という集団の姿でしょう。これは確かに伝統的に称揚されてきた倫理的在り方に通じるものです。
 しかし実際何より難しいのは、内に向けられる厳しさ・正しさの基準の足並みを揃えることかと思います。一人の人間が自分に厳しくするのと異なり、多様な個人の判断を残したままの「内攻」は結局集団をばらばらに分裂させ、細分化しつつ内側で責め合うという状況も招来しかねません。
 もし内向きの正義を完全に統一できればそれはある意味理想的ともいえますが、ただどうでしょう、それは全体主義にかなり近い悪夢の理想となる危険性を秘めているのではないでしょうか?


 これに対してウ派の最終的に理想とする在り方はといえば、「外(敵)を排除して理想の内(世界)を取り戻す」という状態だと思います。こちらの方が単純と言えば単純ですが、ここでは十分な実力を持つ(皆に説得力を持つだけの)外敵が存在しなくなり、かつ内部がそれだけで理想的な状況と感じられないようであれば、集団自身が存続できなくなると思われます。
 常に外敵が存在し求心力があるのならば問題はないのですが、それはまた逆に、永遠に理想とする状態に辿りつけないという寂しい選択になるのではないでしょうか?


 (どんどん演繹というよりただの推論になってきていますが 笑)もしそれぞれが「集団の存続」を自己目的とするならば、ともに「敵」を作る方向に動くと考えるのが自然です。ウ派がそちらに流れるのはむしろ構図的に当たり前なのですが、サ派も外でなく内に象徴的な敵を作ることになろうかと思われます。でも往々にしてそれは内側の「外」、つまり自分には批判がかからないという意味で「外部」を内側に作り出すことになっているのではないかと。ここに至れば「自分に厳しい」という本来の理想から全く逸脱してしまうんですね。


 内部・自分たちに厳しくあるというのは私も選ぶべき倫理と感じます。その意味で「外部批判をする立場」は(それが合理性を持つにせよ)一般の人(倫理観の高い、味方につけたいような人)からはもともと選ばれ難いという部分があります。審美的に劣るかのように思われがちですから。
 しかし内部に厳しいように言いつつ、もしサ派が「自分たち」に批判の鉾先を向けずに内側の他の者ばかり叩くような立場になってしまったら、結局どこに内部−外部の線引きをするかの違いでウ派と同じ穴の狢ということになってしまうんです。


 結局どちらの立場も理想に至るのは非常に難しく、グループの存続を主眼にしてしまったら悲惨な末路に至る可能性を持つということでしょうか。これをうまくいかせるよりも、もっと偏らずに是々非々で物事を判断するほうがずっとましなように見えます。ただその中庸が難しいのでしょうし、そういう是々非々は徒党を組むのがとても困難だったりしますから…