靖国神社をめぐる歴史的葛藤

 nami-aさん@namiメモ経由
 ・靖国合祀、国主導の原案 「神社が決定」に変更朝日新聞 2006年07月29日)
 ・合祀、国が仕切り役 都道府県別にノルマ朝日新聞 2006年07月29日08時35分)


 時節柄、といいますか興味深い記事でした。戦後の靖国神社に関わる歴史的証言としては、記録に残しておきたい事実かと思います。しかし記事を書いた記者には、かなり陰謀論的な予断が入っているのではないかと…。


 戦後の厚生省、特に引揚援護局で積極的に靖国神社に関わろうとしていた方々がいたということは前から言われております。それは戦死した同輩を靖国で顕彰してあげたいとする旧軍の流れを汲む人たちがそこにいたから、というようなことも小耳に挟んだこともあります。また実際に靖国神社に関しましては、国家護持を主張し、それを実現させる法案が国会に上程された時もありました。それを支持する一定数の方々がおられたのです。


 しかし結果はどうかと申しますと、靖国神社法案は昭和44年から五度提出されすべて廃案ということになっています。国会と申しますか自民党も決して一枚岩ではなかったことも事実ですし、国民の広範の支持を結局得られなかったという結論でいいのではないでしょうか。戦没者の追悼を国が行うべきとする方々でもそれが靖国神社でなければいけないという方がすべてではありませんし、靖国神社に参拝する議員でもそれを国家護持しなければならないと考えている方がすべてではなかったのです。
 ですから「国」なるおどろおどろしい主体が靖国国家護持を狙って暗躍したという解釈は、あまりにも単純化した陰謀論であろうと思う次第です。法案は表舞台で審議されましたし。いろいろな立場の人の思惑が絡んだ歴史的事実としてこれは受け止めるのが妥当と考える由縁です。


 実際、上の記事で掘り起こされた「56年1月25日付「旧陸軍関係 靖国神社合祀事務協力要綱(案)」と、それを解説した同30日付の「要綱(案)についての説明」」というものは、「2カ月後の4月19日付引揚援護局長名で出された通知「援発三〇二五号」に付けられた「靖国神社合祀事務協力要綱」では手直しされ」ているわけです。前者を作成した人の意図は公的には叶わなかったと解釈するしかありません。厚生省のやろうとしたことだから「国のプロジェクトでやろうとした」と解釈するなら、後者の結果から「国の意志でそれが打ち消された」ということも認めるべきでしょう。


 政教分離憲法の条文という形でシステムとしてビルトインされています。国家的なシステムに組み入れられたものは、良かれ悪しかれなかなか動かすことは難しいものです。一部の方々の心情でこれを動かすことはできなかったということでもありましょうし、それを変更するだけの広範な民意が形成されなかったということでもありましょう。ここらへんの戦後史に未だに拘泥されている方もいらっしゃるようですが、戦後生まれが過半をとうに超えた現代で、そういう陰謀論的見方だけに拘り続けるのもどうかと思うのが正直なところ。
 もうとっくに政府は関係ないと言明しているのですから…。

 政府の出した名簿が全て合祀された訳ではなく、2002年(平成14年)7月の国会答弁では「国として靖国神社の行う合祀には関わりを持っていない」事が確認されている。(参照

 過去の経緯をどうのこうのいうのは、もはや今からの議論に適当ではないと考えます。それは歴史家に任せましょう。仕切りなおしです。手垢に塗れた陰謀論は捨てて、国としての戦没者の追悼はどうあるべきか公明正大に議論されるようになることを望みます。