盧武鉉大統領の演説

 今日、韓国の盧武鉉大統領が光復節の演説で次のように述べました
 演説要旨 抜粋(韓国語>翻訳)

胸の中に残っている怒りと憎悪の感情もこれからは越さなければならない. …やらかした戦争と拉致などで苦痛受けた人々を思えば…寛容と仲直りの手を突き出すのが決してたやすい事ではないだろう. しかし私たちと私たち 子孫たちの平和で繁栄された生のためには広い心と長い視野で先日を 容赦と 仲直りと協力の道に進まなければならないでしょう.
(連合ニュース 8/15 韓国語版より)

 何という度量の広い言葉でしょう。こういう言葉が日本に向けられた時、私たちはただわが身を振り返って、そして日韓の友好のためにできることはしたいなあと、そう思わせられるはずです。


 …これが日本に向けられた言葉ならば、ですが…


 これは(残念ながら 笑)盧武鉉大統領が北朝鮮に向けて発した言葉です。同胞と思えばこその言葉なのでしょう。朝鮮戦争の殺戮も、民間人の大量拉致も水に流して、「寛容と仲直り」の手を伸ばし「容赦と仲直りと協力の道」へ進もうではないかという暖かいお言葉。(朝鮮日報日本語版ではこういう訳があります)


 そして日本に向けた言葉としては、直接には

第二, 地域平和と協力秩序を脅威する覇権主義を警戒しなければならない.


過去北東アジアの平和を破ったことは列強たちの覇権主義だったし, その時ごとに 韓半島は戦争の渦に巻き込まれなければならなかった. 不幸にも北東アジアには今も過去の心細い機運がのたくっている.


日本の憲法改訂論議を憂慮することもこのためだ. 日本は憲法を 改正する前に先にすべきことがある. 過去に対して心より反省して, 何回の謝りを裏付ける実践で二度と過去のような事を繰り返す意思が ないことを 明らかに証明しなければならないでしょう.


独島, 歴史教科書, 靖国神社参拜, そして日本軍隊慰安婦問題の解決のための実質的な措置がそれだ.


(連合ニュース 8/15 韓国語版より)

 連合ニュースの日本語版では

【ソウル15日聯合】盧武鉉ノ・ムヒョン)大統領は15日、「日本は過去について心から反省し、これまでの謝罪を裏打ちする実践により、二度と過去と同じことを繰り返す意思がないことを明確に証明しなければならない」と述べ、独島や歴史教科書、靖国神社参拝、日本軍慰安婦などの問題解決に向けた実質的な措置が、その証明に当たるとした。光復(植民地支配の独立記念)節61周年の祝辞で、日本の憲法改正をめぐる議論に言及した盧大統領は、平和憲法の改正自体を議論することは行き過ぎともいえると懸念を示すと同時に、「憲法改正の前にすべきことがある」としてこのように述べた。 (後略)

 と、表現されていますね。


 まあ、いいですけど(苦笑)
 むしろ太陽政策」は、日本に行ってこそ最大限の効果をあげるということが盧武鉉大統領に知られていないということは、案外ラッキーなのかもしれません…

いや、でも

 こんなことを言っているのが、韓国与党ヨルリン・ウリ党の禹相虎スポークスマンですから、他人を批判する資格なんてないでしょう…頭を使ってない人ですね。

「戦犯の位牌に頭を下げることは人類に対する精神的テロ」

 韓国の与野党は15日、小泉総理が靖国参拝を強行したことに対し、口をそろえて「アジアの平和を踏みにじる行為」とし、強く非難した。


 与党ヨルリン・ウリ党の禹相虎(ウ・サンホ)スポークスマンはこの日、「ウリ党がこれまで再三にわたって、万が一靖国参拝を強行する場合、両国関係は取り返しがつかないほど困難な状況に置かれると警告してきたにもかかわらず、小泉首相が強行したことに対し、強く非難する。平和と和解を目指したアジアの念願を徹底して踏みにじった」と論評した。


 禹スポークスマンは「光復節である今日、主権強奪と野蛮な植民地支配を指導したA級戦犯の位牌の前で頭を深く下げたことは、侵略戦争の傷がまだ十分に癒えていない周辺国の国民の心に刃物を突き刺したも同然の野蛮な犯罪行為であり、人類に対する精神的テロ」と強く非難した。


 また禹スポークスマンは「先日、日本国民が崇拝する天皇でさえ、戦犯合祀を反対し、一度も靖国参拝を行わなかった。また2005年に大阪高裁は靖国参拝に対し違憲判決を下した。日本の一部勢力の奥底に眠る侵略的本性が、捏造された歴史で生まれた精神的退行であることを立証している」と批判した。


朝鮮日報/NEWSIS

靖国神社には位牌はない
・いわゆるA級戦犯韓国併合に直接関わった者はいない
昭和天皇が一度も靖国参拝を行わなかったというのはいくらなんでも…
・大阪高裁は靖国参拝違憲判決を下してはいない(参照
 二次的な勘違い(や誤解、曲解)を勘定にいれなくても、これだけの短い発言でこんなに事実誤認が…(苦笑)


 あと、こちらになぜか(笑)感銘。うんうん。
 (リンクを張らせていただきます)
 →追記
 かなり以前、まだ若かった時のことですが、知人で真面目な人で「世の中には困った人、可哀想な境遇の人がこれだけいるのに、自分が幸せを感じていいのかな」と(若さゆえの)直球の言葉を語る人がいました。
 私はそれに対して「他に不幸せな人がいるからという理由であなたが幸せになれないとして、他の人も同じ理由で幸せになるのを躊躇するとしたら、結局この世の中で幸せになる人はいないのでは」という具合に理屈っぽく答えたことを思い出します。
 確かに、直接自分に害を与えた人などが簡単にそれを忘れて幸せになっていたりしたならば、私も気分を悪くするだろうと思います。でも、その「自分にとって悪い奴は幸せになってはいけない」という恨み節は永遠に残らなければならないものでしょうか。それはとても悲しい状況です。
 さらに言えば、「自分にとって悪かった奴の子孫は幸せになってはいけない」とまでくれば、これはもう逆恨みもいいところではないかと…
 そんなこともふと思いました。
 前非を悔いて真面目に苦しむ「加害者」に、第三者としてはわりに簡単に「もういいよ」と言ってやりたくはなるものなのですが、被害者のことも考えてどのくらいで本当に「もういいでしょ」と言えるかは難しい判断でしょう。でもやっぱり「幸せ」になる人がいないと、この世はどうしようもないでしょう?