昭和三年度(1928年度)の帝大生の就職率

 重箱の隅ネタなので、軽くぼかして…。
 某所で「世界恐慌の始まった昭和4年の帝大生の就職率が3%」云々という記述を見かけました。話の本筋とは全く関係ない(むしろ興味深い記事)ところでしたが、さすがにこれはないのではと思いました。


 で、ちょっと検索した程度ですが、

 一九一八年大学令によって慶応・早稲田・法政・同志社なとが大学となり、以後、学士と呼はれる卒業生が急増していく。がその後の不景気で就職難は大学卒業生にもおよぴ、一九二九年四月の東京帝大生の就職率は三十パーセントと深刻化。また十月にはニューヨーク株式市場の大暴落、世界的恐慌がおこって、当時封切られた映画「大学はでたけれど」のとおり、仕事にありつけない〝高等遊民〟は増加するばかりとなった。
心外無法 少林寺拳法ウェブサイト

 とか

1月17日 就職率は東京帝大で半分、早大五パーセントと新聞に。
20世紀本館 1928年

 そして

(昭和4年)不況は深刻化していた。
求人数は激減し、翌年の大学卒業予定者には、長く暗い冬となった。
見込まれる就職率は、一橋の約8割は例外として、東京帝大で6割から7割、他の大学では、5割から3割見当といわれ、学生たちは伝手をたよって、就職運動にかけ回っていた。(264頁)
城山三郎『男子の本懐』より引用

 という具合に、それぞれ数値もばらばらで根っこのソースも明示されていませんがこの年の帝大生の就職率についての記述がありました。でも3%とかひと桁の就職率という言及は見当たらないようです。


 また、こちらの記述を読むと(これは戦前一括りの数値のようですが)

 ちなみに、いま読んでいる「教養主義の没落」によると、文学部学生の就職が困難極まりないのはいまに始まったことではなく、戦前から文学部卒の就職情勢は厳しいものだったようです。東京帝大文科の就職率はなんと37%。しかも官吏や銀行員、会社員になれた者はほとんどおらず、就職者のほとんどが旧制中学や旧制高校の教員でした。
portal shit! 悔恨の日々)

 とありまして、これは竹内洋教養主義の没落』中公新書だと思いますが、この本を引いて

昔のエリート学生はなぜあんなに難しい本ばかりを、争うように読んでいたのか。昔はそんな本しかなかったから?いえ、いえ。一般の庶民(とはいえ、無学歴層よりは上層)は「キング」「講談倶楽部」「日の出」などの娯楽雑誌を読んでいたのである。昔の豊かな読書をささえてきたのは、本を読めば「立派な人」になれるという「教養主義」であると著者は主張する。「中央公論」や「改造」を読まないと「時代に後れると思われていた」というのである。しかしそんな「教養主義」も一皮剥くと、「教養の牙城」ともいうべき文学部が、「実学の巣窟」たる法学部や工学部より、経済的にも出身階層でも下に位置づけられ、所詮2流という劣等感を背負わざるを得なかったということ。そして、むしろそういう「被害者意識」をバネにして、就職率37%という「やせがまん」を耐え忍ぶ、屈折した「主義」を成立させていたことを、鮮やかに描き出している。教養主義の破壊者ともいうべき石原慎太郎の「カッコよさ」は、教養主義の「貧乏臭さ」への自己嫌悪であり、つまりは教養主義の裏返しだったという示唆もあり、とても刺激的な好著だった。
徒然読書日記200411

 と帝大文学部学生の「就職率37%」が言われているのは確からしいです。でもこれは他学部に比べて相当に悪いという意味で使われているデータと思われますので、いよいよ帝大全体の就職率が3%だった(時があった)云々という話はどうでしょう、という感じです。


 あと広島大学の文書で、「戦前高等教育機関の 「物理」「数学」入試問題の分析」というpdfでは、戦前の旧制中学校卒業者と実業学校卒業者の卒業後の状況という表がありまして、昭和四年のそれぞれの就職のパーセンテージは、中学校で30.1%(進学は36.2%)実業学校で75.0%(進学は8.6%)となっておりまして、確かに「大学」を出たものには高い俸給をださねばならず不況下ではそれが就職率の低下ともなろうとは申せ、帝大生の就職率が中学校卒業生の10分の1とかいう話になっていたとしますと、それは途方も無いスキャンダルなのではないかと思います。


 いくらなんでもそれほど衝撃的な数値が事実としてあるならば、それに皆言及しないはずがないように思われる…という消極的な推測でしかないのですけれど(結局決定的なソースは見つかりませんでしたので)、やはり3%という数値には首を捻ってしまいますね。