ねこ派の帝(枕草子)>かわいそうなわんこ(翁丸)

 うへにさぶらふ御猫は、かうぶりにて命婦おとどとて、いみじうをかしければ、かしづかせ給ふが、はしにいでてふしたるに、乳母の馬の命婦、「あな、まさなや。入り給へ」と呼ぶに、日のさし入りたるに、ねぶりてゐたるを、おどすとて、「翁丸、いづら。命婦おとどくへ」と言ふに、まことかとて、しれものははしりかかりたれば、おびえまどひて御簾の内に入りぬ。

 宮中にお仕えする(飼われている)猫さまは、叙爵(猫)で(名を)命婦おとどといって、とてもかわいらしいので、(主上は)特別に可愛がりになっておられるが、縁先に出て横になっているところを、乳母(=お守り)である馬の命婦が、「まあ、お行儀がわるい。お入りなさい」と呼んだのに、陽が(うららかに)差し込んでいて、居眠りをしてそのままいるのを、(馬の命婦が)おどかそうとして、「翁丸、どこ?命婦おとどを食べて」と言うと、本当かと思って、馬鹿者(の翁丸<わんこ)が走り(寄り飛び)かかったので、(命婦おとど<にゃんこは)怯え惑って(主上のいる)御簾の中に入ってしまった。

 朝餉のおまへにうへおはしますに、御覧じていみじうおどろかせ給ふ。猫を御ふところに入れさせ給ひて、をのこども召せば、蔵人忠隆、なりなかまゐりたれば、「この翁丸うちてうじて、犬島へつかはせ、ただいま」とおほせらるれば、あつまり狩りさわぐ。馬の命婦をもさいなみて、「乳母かへてん。いとうしろめたし」と仰せらるれば、御前にもいでず。犬は狩りいでて、滝口などして、おひつかはしつ。

 朝餉の間に主上がいらっしゃったが、ご覧になってたいへん驚きになられた。猫(命婦おとど)を御ふところ(の中)へお入れになって、侍臣たちをお呼びになったところ、蔵人の(源)忠隆がなりなかに(…未詳)参ったので、「この翁丸を打ち懲らしめて、犬島へ追いやれ、今すぐに」と仰ったので、(大勢)集まって(翁丸を)狩り立てた。(主上は)馬の命婦をもお咎めになり、「守り役を代えてしまおう。まことに気がかりだ」と仰せられたので、(馬の命婦は恐縮して)御前にも出られなかった。犬は狩出して、滝口(の武士)などに命じて、追い遣ってしまった。


 長保二(1000)年三月中旬の出来事と推定されている『枕草子』の記事です(第七段)。時の天皇は一條(一条)帝で御年二十一。作者清少納言がお仕えする定子*1は十年前に入内しその年からずっと中宮でいらっしゃいましたが、この年の二月に皇后となり、九ヶ月後の十二月に御出産してそれが原因で崩御されます(享年二十五)。今から千年も前の話です。
 この時宮中で飼われていた猫の「命婦おとど(♀1歳)」は一條帝のお気に入りで、従五位に叙せられ、世話係「馬の命婦」にかしづかれて特に可愛がられていました。そんな恵まれた「命婦おとど」でしたが、この日、日向ぼっこで縁側に寝ている時に部屋の中に入ってねという馬の命婦の言葉に従わなかったばかりに、冗談半分に「翁丸♂」をけしかけられ、びっくりして帝のふところに飛び込むというはめになります。
 この翁丸は定子のお気に入りでして、この時もただ忠実に知っている人の命令を聞いただけなのですが(馬鹿正直と言えましょう)とんだとばっちり、命婦おとどを怖がらせたということで帝の不興を買い、折檻のうえ犬島(現在の岡山県にある島)へ追い遣られることになってしまいます。


 仲睦まじい男女がいて、男は猫好き女は犬好き、お互いが相手の好きな動物を受け入れて…という絵に描いたような幸せから急転直下、という感じもいたします。実はすでにこの頃政争では藤原道長が定子の兄伊周を追い落として氏の長者になり、二月には道長の女、女御であった彰子が中宮となっています。彰子は前年に入内したばかりで御年十三でした。
 伊周失脚の後もすでに第一皇子を生んだ定子と帝の絆は固いものでありましたが、ちょっと隙間風が吹くような感じを受けます。そしてこの先一年もしないうちにご出産に伴って定子は亡くなるわけですし…


 猫派犬派というのは、すでに千年前から分かれていたようにも思えます。

*1:藤原道隆の女(むすめ)。