植草某氏の痴漢

 もはやほとんどテレビで見ることもなく社会的には大きな意味を持たないと思われる植草氏の痴漢行為について(もちろん当然罪は罰せられるべきですが)、わりに皆さんの関心が持続して向けられるのはなぜかなと思い、次の古い評論の一節を思い出しました。これはもう二十年も前の中島梓の言葉で、「知的デモクラシーによる偶像破壊」という文脈で語られたものです。

 かれらは途方もないアリストクラートだけは手のつけようのないものとして放っておくが、あとのものは、一人ひとり、かれらと同じレベルへひきおろすことに熱心になる。マスコミがそれに必要な情報をいくらでも提供してくれる。作家も歌手も学者も芸術家も「同じ人間」にすぎないじゃないか、ということになり、要するに単なる技術者と看做される。作家の盗作、学者の婦女暴行、芸術家の脱税、歌手の不倫がいかに人々のつきぬ話題の種となっているか―ところで、かつて、かれらアリストクラートたちは、むろんそれらの逸脱によって異人種とされつつ、しかし、それがかれらの「特別」であることのあかしとされていたのだった。聖なるものは最も汚れたものであった。オスカー・ワイルドも、マルキ・ド・サドも、松居須磨子も、かれらの醜聞はかれらの芸術と表裏をなすものであった。カントの奇行はカントの偉大さのエピソードであり、ジェンナーの勇気は非人道的な英雄のそれであった。つまりかれらは他の人々と「違う」ことによって差別され、「違う」ことによってゆるされて精神のアリストクラートであったのである。
 しかしいま、中流階級たちは、ある人々がかれらと違うことを認めない。かれらは自分の立ち入ることのできぬサンクチュアリを世界の中にのこしておくことができない。かれらはマスコミによって他の人々と―「世論」と同じであることを証明されたかれらの倫理道徳が、及んでゆかぬ人々のいることに納得できない。それゆえに「マスコミは芸能人に甘い」とかれらは怒り、「人一倍稼いでいるのだからプライヴァシーなどないと思うべきだ」と信じ、相手が自分のレベルに下って来てくれぬことを怒る。
 (中島梓『ベストセラーの構造』講談社文庫、p.42 強調は引用者)

 今から見るとやや時代の違いを感じてしまう文かもしれません。ここで語られる「かれら」とは、「反教養主義的な中流階級」として、ベストセラーを支える集団という意味合いで中島が抽出した「層」の人々のことです。


 この文脈で見るならば、植草某氏の性的犯罪は「偶像墜落」として囃されているということにもなります。一度堕ちた偶像の植草氏ですが、あるいは今でも某大学の客員教授をやっていたり、コンサルタント会社を経営していたりと、「まだ堕ち方が足りない」と目されていたのかもしれないなとは少し思います。


 中島が(知的)「中流階級主義」として捉えた一般大衆像が現在もそのまま通用するとは思いませんが、メディアに登場する者、声の大きい者、もっともらしいことを述べる者に対して、厳しく身を律しない場合すぐに強い攻撃がなされるという部分では、20年前とそうかわらないとも見えます。
 この点では最近のブログやサイトの「炎上」とか「ネットイナゴ」とかそういったものが想起されます。植草報道はメディアによる緩い炎上であり、彼が今なすべきは自己弁護ではなくそっと世間から身を引いて隠れること、とまで言うのは言い過ぎでしょうか?


 炎上云々は単に新しい媒体で起きているから目新しいものとして語られるだけで、実はずっと前からのある傾向の反映なんじゃないかと密かに思うのです。