日の丸裁判雑考

 今日は忙しく、七時のNHKニュースを見て初めて知ったのですが、国旗掲揚の時の不起立に対する処分に否定的かつその命令は違憲という地裁判断がでたそうですね。
国旗掲揚時の起立強制は違憲、地裁が都に賠償命じる

「日の丸裁判」で勝訴し、会見する尾山弁護士(中央)ら(東京・千代田区で) 入学式や卒業式の国歌斉唱の際、教職員は国旗に向かって起立しなければならないなどとした東京都教育委員会の通達は違法だとして、都立学校の教職員ら401人が、都と都教委を相手取り、通達に従う義務がないことの確認や損害賠償を求めた訴訟の判決が21日、東京地裁であった。


 難波孝一裁判長は、「通達や都教委の指導は、思想・良心の自由を保証した憲法に違反する」との違憲判断を示した。その上で、「教職員は国旗に向かって起立し、国歌斉唱する義務はない」と述べ、退職者32人を除き、起立や国歌斉唱の義務のないことや、処分の禁止などを認めた。
(中略)
 都教委は2003年10月23日、都立高校や養護学校など、都立学校の各校長に、入学式や卒業式などで国旗の掲揚と国歌の斉唱を適正に実施することを求め、教職員が校長の職務命令に従わない場合は、服務上の責任を問われるとする通達を出した。教職員は「通達は思想・良心、信教、表現、教育の自由を侵害する」などと主張して、翌年1月以降、計4度にわたり、提訴していた。


 判決は「日の丸」「君が代」について、「明治時代から終戦まで、軍国主義思想などの精神的支柱として用いられ、国旗、国歌と規定された現在においても、国民の間で中立的な価値が認められたとは言えない」と指摘。「懲戒処分をしてまで起立させ、斉唱させることは、少数者の思想良心の自由を侵害し、行き過ぎた措置だ」と述べた。
 (2006年9月21日17時23分 読売新聞)

 さて、今後の審判も注目されるわけですが(十中八九控訴されるでしょう)、この判決の時点での感想などを少々記しておきたいと思います。


 まず判決の主旨のうち汲めるところは、思想・信条の自由を明確に(この件では職務命令と対置して)優先させるべきとの判断がなされたところですね。「公務員」が職務として命ぜられたことに対しても、場合によっては内面の自由を理由に従わなくてもいい場合があるとした判断は、命令自体の内容や拒否の程度にもよりますが評価できるとは思うのです。(頭の中にはメンゲレアイヒマンの裁判と証言があります)
 しかしその自由はあくまで個人のレベルでの自由に留めて欲しいところがありまして、少なくともそれが個人的起立拒否の段階にあったならば、もともと教育委員会の通達や都教委の指導といった強制的側面は無かったのではないかとも単純に考えます。つまり式典時に黙って起立しない、歌わないという行為を各々個人の判断としてするだけであれば…ということです。


 たとえば昨今の教育現場の荒廃だなんだと、国に方策を求める人たちは多くおられます。教育は押し付け・強制の側面を必ず持つものでありますから、その内容を国なり自治体や教育委員会なりが責任をもって方向づけるということは不自然なことではありません。何を、というところには議論もありましょうが、それはどこかで決断されるべきことでもあり、その内容に責任をもつ以上は裁量権のうちにあるはずです。


 どうにもそれに納得がいかないとして、自分でその命令を拒否するという在り方が個人にあるべきとは思いますが、その方針に反する内容を公教育の現場で「教育」として生徒なりに教えるとなれば、それは個人としての立場ではなく「公務員・教員」としての立場の濫用と見えます。ぎりぎり自分が立たないことで「背中で伝える」のはありだとも思いつつ、「君が代・日の丸は軍国主義だ」という具合に教えようとする方々には、それは公務員としてやるべきではないと、職を辞して自由な立場で(たとえば私立に行くなどして)行うべきではないかとも思うのです。「国旗及び国歌に関する法律」が成立し、その国旗・国歌に関して教育の現場で尊重されるべきと国や自治体が方針を立てている以上、それを批判するならばそこに属する立場を離れて行うのが至当かと…。もちろん批判の自由もありますし、多数派を形成して国旗・国歌の改正を目指すのも正当な手段ですが。


 また、この地裁判決が指摘する「明治時代から終戦まで、軍国主義思想などの精神的支柱として用いられ、国旗、国歌と規定された現在においても、国民の間で中立的な価値が認められたとは言えない」という事実認定には錯誤があるように思います。日の丸・君が代は国家の象徴的存在として明治以降の日本において認められていたものということで、それが「軍国主義思想の精神的支柱」としてのみあったと判断することは明らかな間違いです。明治の商船が日の丸を掲揚していたことも、大正の人々が卒業式などの式典で君が代を歌っていたことも、それを「軍国主義」とすることは誰にもできないのですから。
 象徴というのは多義なものです。またそれは受け取る人々の意味の問題でもあります。もし本当に今現在でも日の丸や君が代に「軍国主義」だけを見てしまうような方々が国民の過半だとすれば、とっくにそれらは国旗でも国歌でもなくなっていたことでしょう。むしろそれに「軍国主義」だけしか見ることができない方々のほうが少数であり、偏っていると私には見えます。偏っているからといってその思想を変える必要はないにせよ、自分たちが絶対正義であるかのような誤解は(もしお持ちなら)早く捨てられるべきでしょう。


 また、何かこの「日の丸・君が代」の背景に宗教的なものをご覧になっている方々もおられるようですが、それを宗教的なものと認識するならば「天皇」の存在自体が宗教的と言わざるを得ません。そのぐらいの薄いレベルであると私は思います。それだけに、この問題で「国家神道が」云々と言うような人は、単なる宗教アレルギーか、あるいは何か他の信仰にどっぷりの方か、そういう類の人なのだと思えますね。いずれにせよこれはそういう強弁の段階で論じられる問題ではなく(実際判決でも触れられていませんね。原告の主張にはあったみたいですが)、公教育がどうあるべきかというところと民意がどうあるかというあたりに関わってくるものだと考えています。その点から見て、これはかなりおかしな判決に見えてしまいますし、控訴・上告でどのような判決が出てくるのか注目して見て行きたいと思っております。