自分を過不足なく認識するのは難しいということ


 自分の声を録音して、それを再生した時に「こんなの自分じゃない」と思った経験はないでしょうか?「自分の声はこうなのか…」が来るより先に、コレハ自分デハナイという拒否感が来るような経験が。またスナップショットで取られた自分の姿、顔をみてびっくりしたり。コレハ自分デハナイ。毎日鏡なんかで見ているはずなのに。毎回何を見ていたのか…。


 私たちは第三者的に自分を見ていないぶんだけ、他の人とは違った自分の見方をせざるを得ないのです。そしてそれが美化みたいなものである場合も決して少なくはないはずです。確かにそれは気付けば恥ずかしいと思わせることでもあります。でもだからと言ってその「外」から見たものがすべて客観的で正しいという話には決してならないはずだとも考えます。
 自分の中を通らない自分の声、自分の容姿の映像・写真などは、言い訳のしようがないほど客観的なところを持ちます。ですが自分に対して自分の目が曇るように、第三者の「生きた」目線ならばそれはそれで同じように曇ってもいるものです。他の人の目で見た自分であるという理由だけで自己認識を全てそれにあわせる必要もありません。


 これはちょっと微妙な問題です。私はむやみに勝手な自己認識のみに籠ることを勧めたくもありません。でも同時に他者の自己認識を単純に否定できるのかということも考えるのです。


 自分に籠って(あるいは自分の視点に固執して)、他からの視点を受け入れないということを時に人はしがちなものだと思います。でも常にそれだけで自分を認識している人はそれほど多くないでしょう。あるいは他人の視線で見た自分を見るのが怖くて、それで自分の見方に固着する人はいるかもしれませんが、それも自分の見方だけではないということに気付いているがゆえの怖さだと考えます。
 また逆に他者から見える(であろう)自分ばかり気になって、過度に神経質になることだって人にはあると思います。そのどちらもあるのが私たちというものではないでしょうか?
(そして程度の差こそあれどちらも経験している私たちは、似たような状況に陥っている(と見える)人に出会ったとき「お節介」をしがちです。でもここでは「程度の差」が重要になることもあるのです。)


 自意識が過度になり、自己認識が独りよがりになったり依存一辺倒になったり…。これは「自意識」があとから形成されるものだからでしょう。それは生まれながらにあるものではありません。成長の過程で作り、獲得していくものであるからこそ調整が難しいのです。
 こういう自意識の形成は思春期と言われるあたりで盛んに行われるもので、特にその入り口のあたりでは「中二病」とかいわれる類の適応不全がよくあります。もちろんそれは若いある時期にだけ限ったものではないのですが、その頃に特徴的ということはいえるでしょう。それが一応でも落ち着きを獲得するのは、ひとえに自分がどうするかということにかかっていまして、不安定な自分(意識)がまがりなりにも自力で自分の安定を確保しなければならないというアクロバティックなことを、ここで人は要求されるのです。


 特にそれが「独立自存の近代的自我」といったものになりますと、こと日本近代では参考にできるモデルが少なかったといえるかもしれません。そういうニーズに応えたのが「近代文学」だったと私は考えています。
 「他の連中がみんな馬鹿みたい」に見えたり、反対に「自分が調子付いたマヌケ」に見えたり、そういう振幅が自分ひとりのものではないことをまず認識できれば、それは一つの救いになるでしょうし…。
 人によってはその「文学」が果たした役割を周囲の誰かが担ってくれたということもあるでしょうが、人がそれをやろうとするのは大抵とても難しいものです。往々にしてお節介になりすぎるからですし、判断ミスや偏見が当然出てしまうからです。下手な医者は病気を悪化させるだけです。やはりここはその当人に自己治癒の力で頑張ってもらうのが一番適当なのでしょう。


 当人が気付きたいと思うときには「自分だけの視点のみでは足りない」ということに気付けるものです。そしてそれを傍からどうこうするのはちょっと考える以上に難しいということを心に留めておくべきです。
 …という話を「個人」から「集団」に敷衍するとちょっとした寓話になります。溜息がでるほど何度も、そういった寓話で自分を抑えなければならないことがあります。それはまた別の機会にでも…。