玄人のジャーゴンまみれの言葉

 昨日の話をちょっとひっぱります。まずはご指摘があって改めたように、広田照幸氏は日本大学文理学部の教育学科教授にかわられておりました。ご本人を含め各所にお詫びいたします。日大の文理学部は頑張って人材を集めておられますね(ヨイショ)。でもこれは必ずしもわざとらしい持ち上げのみでもなくて、たとえばあと半月後の四月からは千葉大の哲学/倫理学永井均氏も日大文理へかわられるとか…
 永井氏独自の哲学する姿勢は、きっと日大でも学生によい影響を与えることになろうと思います。こういう独自の思索を続けられる方にはかつて大森庄蔵氏などもおられたわけですが、永井氏は(一見)平易な言葉で思索を記され、かつかなり深い洞察をなさいます。関心が大いに重なると思う私ですが、どうにも最後の一、二歩で未だによく理解できない(ピンとこない)ところがあります。それでクリアに理解できないにも拘わらずその営為に惹きつけられるという点では、私にとっては大森庄蔵氏とも同じように感じられている方です。


 永井氏の書かれたものの一部に、同業者のうかつな?ジャーゴンまみれの言葉を批判するものがあります。「話はそれるが」などという書き出しにも拘わらず急に熱が入って長くなってしまっているという感じがする部分もあり、印象に残るものです。これは昨日の日記の内容に関わってくるところだとも思いますので、少し引かせていただきます。


 ところで、以上とほぼ同じような議論を『自己と他者』(昭和堂)という本の中の「独在性と他者」という論文の中で書いたとき…二つの批判が出てきた。ひとつは…熊野純彦さんの書評で、もうひとつは『群像』九四年七月号の竹田青嗣さんの書評だ。

 竹田さんは、永井は「人間の『独在性』(<この私>性)は言語の構造上これを明示することができない、というパラドクスの”発見”をしたと言う。そしてこれは自己を解体する試みだが、そんなやりかたでは自己は解体できないのだ、と。これが竹田さんのぼくに対する批判だ。

 ぼくは、この二人には根本的な誤解があると思う。…二人とも、ぼくがなにか思想的立場のようなものを提唱していると思い込んでいるようだ。レッテル的に言えば、熊野さんは永井は「独我論者」だと思い込み、竹田さんは永井は「自己解体論者」だと思い込んでいる。
 そうではない。ぼくはただ、独我論というものについて、これまでとはちがった考え方をせざるをえなかっただけだ。

 話はそれるが、そこで竹田青嗣さんはちょっと驚くべきことを言っているので、それも指摘しておこう。…彼はこう言う。「つまりこれは、すこし前に流行った『自己言及的』パラドクスの象徴的事例なのである(まさしくそれが『自己』の言及に関して指摘されているから)」と。まじめにとっていいなら、これは驚くべき主張である。ぼくが「パラドクス」を発見し、それが「『自己言及的』パラドクスの象徴的事例」であるとは、いったいどういうことだろうか。

 しかしそれに続く文章はさらに驚くべきものだ。「ポスト・モダン的議論の泥沼を多少なりとも踏み渡ったものなら、この問題の背後には、『主体の形而上学』をいかに解体するかという……フランス思想界における反ヘーゲル的格闘が存在することを知っているだろう」。


 「この問題」とは、文脈から判断して、独在性をめぐるぼくの議論のことだ! その背後に「…フランス思想界における反ヘーゲル的格闘が存在する」なんて話が、いったいどこからでてくるのだろうか。そして竹田さん自身の考え方では「『自己や主体なんてないんだ』とか『自己なんてものは誰にも言い当てられないんだ』という言い方では、ヘーゲル的『自己』は簡単には解体されないのである(引用は全部『群像』三〇〇頁から)。それゆえに、永井の言うことはまちがっているということになるらしい!
 率直に言って、どうしてこんなにもでたらめなことが次々と書けるのか、ぼくには理解ができない(いや、でたらめではなく根拠があると言えるなら、竹田さん、ぜひきちんと説明してください!)。


 哲学に対する批判は、ことがらそのものへの驚きを共有し、提起されている問題に対して真摯な思考をへた後でしかなされえない。自分が連想した(しかし無関係な)問題について、自分の信念を述べ立てても、批判にはならないのだ。


 続けて竹田さんはこう言う。「そういう現代思想の動向を踏まえて言うと、この本での『自己問題』の語られ方は、……なぜ『自己』や『主体』が重大な問題だったのかという背景が、どういう理由でか抹消されて」いる、と。


 抹消だって? 自己や主体が重要な問題であることに、もともと「背景」なんかありはしない。「現代思想の動向」なんか糞くらえ! だ。哲学というのは、ぜんぜんそんなものじゃないのだ。「主体の形而上学」やら「ヘーゲル的自己」やらが「解体」できるかできないかなんて、大仰で空疎な問題が、哲学の問題なんじゃないんだ。そうではなく、<子ども>の驚きをもって世界に接したひとが――だからほんとうはすべてのひとが――そのとき感じたもっとも素朴な問いこそが、哲学の問いなのだ。そこから哲学をはじめることができるし、ほんとうをいえば、そこからしかはじめることはできないのだ。
 哲学に魅力を感じている若いひとたちが、「現代思想の動向」を気にするようになるまえに、まずそのことを信じてほしい、とぼくは願っている。


永井均『<子ども>のための哲学』講談社現代新書1301、pp.103-108より抜粋)

 私は竹田青嗣氏もそのクリアカットなところが好きで読ませていただいておりますが、ここでは形無しですね。永井氏がおっしゃる言葉は、素人と違うなどと思っている「玄人」の足下をすくうものです。学問の手続き云々という(昨日引いた)言い方すら、ここではやや空しく聞えるくらいです。哲学には確かにこういうところがあるんだと思います。
 永井氏のこういう言葉が、日大でも多くの学生を動かすことになるのではないかと期待いたしております。