とりとめもなく

 「差別心なんて誰もが持ってるものなんだろ」という前提の、ある議論に興味をひかれました。だから、と議論は続いて「その差別を表現するのが悪い」となるのですが、これには大筋で同意できます。でもちょっと不思議だった部分もありまして、ちょっと考えを書いてみます。


 差別と言っても程度は様々です。弱いものでいいますと好悪の情だって差別に成り得ます、平等視ではないのですから。でも一人の人間から見て、人と人に差がつけられる(意味の差、価値の差…)というのはこれは避け得ないものです。身近な人、好きな人、馴染みの人、タイプな人、こういった方々に対して、見知らぬ人、好みでない人、などなどという存在には基本的に差がつけられます。両者に対して全く同じ態度でいろとは誰も言えないでしょう。差別心自体を有責とするならば、罪のない人はいないのではないかと思う理由はここにあります。


 また、私も含めて人は差別感をどこかに抱きつつ誰かに差別感を抱かれるような存在だとも思います。(表現はきついですが)差別しつつ差別されると言ってもいいかもしれません。そしてその対象や表現は千差万別ともいえるでしょう。これはもう一つ一つのケースでみるしかないのです。
 そして誰かに差別されたからといって自分が誰かを差別することが免責されないことも当たり前といえば当たり前。独占的に差別ができる人・集団なんてないのですから、誰もがすねに傷を持つのではないかと考えるのが先の前提から出てくる懸念です。


 もちろん直接自分が被害を蒙った時、その加害者側に文句をつけるのは当然ですしできるならすべきです。ですが「誰もが差別心を抱いている」という怖さがあるのならば、その被害者としての立場を振りかざすのには限度があるとわかってくるとも考えるのですが…少なくとも私には怖くてできないことです。人を糾弾した分だけ、あとでその唾が自分にかかってきそうな気がするからです。