女人禁制 大相撲

 izaのニュース記事で、「土俵の「女人禁制」支持増加 大相撲アンケート」というものがありました。

 日本相撲協会は14日、生沼芳弘・東海大教授らが昨年9月の秋場所4日目に東京・両国国技館で実施した来場者アンケートの結果を公表した。
 同教授によると、女性は土俵に上がれないとするいわゆる「女人禁制」を支持する意見が、前年の調査に比べて男女とも増えている結果が出た。同教授は「日本社会の保守化があるのでは」と分析した。この調査は2004年から定期的に実施されている。
(03/14 20:38 iza)

 この件に関しまして、現在日本大相撲協会のサイトには情報が載せられていません…というより、大相撲協会はこのサイトで過去のアンケート結果も公表していないようです。(生沼教授は東海大学体育学部体育学科の方で、専門は社会学スポーツ科学です。協会の依頼を受け、2004年からこのアンケートに取り組んでおられるとのこと)


 上記ニュースの続報が待たれるところですが、「最新、アンケートによると」というブログさんで、過去のこのアンケートの件についての賛否の比率が「大相撲の土俵に女性が上がるのは」という記事にちょっとまとめられておりました。(記事は昨2006年の2月10日のもの)

日本相撲協会
 「来場者アンケート」によると
 ・昨年9月秋場所2日目
 ・国技館来場者171人(女性86人)

☆表彰式に女性知事が土俵に上がることについて
 ・反対 54% 92人
 ・賛成 46% 79人

※04年11月九州場所アンケート(300人対象有効回答153人)
☆女性が土俵に上がる、表彰式だけならかまわない
 賛成79人 51.6%、反対74人 48.4%

☆女人禁制は守るべき
 賛成96人 61.5%

※04年5月夏場所と7月名古屋場所
☆このような伝統を重んじる社会があってもいいか
 ・夏場所は  270人中220人が、肯定的な回答
 ・名古屋場所は184人中143人が、肯定的な回答
(後略)


 過去記事「聖とかかわる女性2」で、次のような話を書いたことがありました。

 それではその後の日本の宗教においてなぜ男尊女卑的傾向になってしまったのかですが、もちろん外来の思想・宗教の影響ということもありますが、柳田は次のように考えます。

 女の力を忌み怖れたのも、本来はまったく女の力を信じた結果であって、あらゆる神聖なる物を平日の生活から別置するのと同じ意味で、実は本来は敬して遠ざけていたもののようである。

柳田國男 『妹の力』)

 つまりは男が女を怖れるという表現形式が、いつしか女を蔑視する表現に変わっていってしまったのではないかという推測です。このようなことを考えますと、女人禁制の山の聖域とか、女性が禁忌とされる相撲の土俵などの件に関しましても、本当の本当は男性が女性の力を畏れていたがゆえの宗教的表現と考えることができるのではないでしょうか?

 きたないとか穢れるとかいう語で言い現わしていたけれども、つまりは女には目に見えぬ精霊の力があって、砥石を跨ぐと砥石が割れ、釣り竿・天秤棒をまたぐとそれが折れるというように、男子の膂力と勇猛とをもってなし遂げたものを、たやすく破壊し得る力があるもののごとく、固く信じていた名残に他ならぬ。

柳田國男 前掲書)


 私はこの問題について保守化云々という話は本来馴染まないものと考えています。男性と全く同じ在り方を手に入れなければ、女性には同じ権利は確保できない…と考えるのは必ずしも正しくないと思うからです。人権思想に結びついた社会的権利を同等に求めることと、社会的布置の同等性を求めることは等しくないことではないでしょうか?
 女性の権利の拡張という目的で象徴的にこの事例を扱うのは、かえって反発を招きかねません。薮蛇のようにも思います。まっさらに平準で平等な関係というものを理想にするならば、それはかつてどこの世界でも実現されたことがないような「想像」に過ぎないでしょう。本当にそういう「理想」がユートピアとして有り得るのか、それはむしろある意味ディストピアに過ぎないのではないかなと感じるのです。


 やや突飛かもしれませんが、思い出したのは次の一節です

 …その後、現在のSNSが、アーキテクチャそのものの性格上、人間社会の表象としては不十分であることを感じることが増えた。例えば、前述したような「ミク中」状態にまで利用者をドライブしてしまうような過度な「つながり」感の醸成は、人と人のつながりを人工的、かつ平面的に敷設したために発生したものだ。結果、本来ならば濃淡があり、多層化されているためにおこらないことが、つながりが錯綜し、その維持に(本来、いったんリンクされてしまえば消えることはないにも関わらず、希薄になってはいけないという心理的な錯誤によって)大きなエネルギーを費やさざるを得ない状況に(少なくとも多くの日本人の気質的には)入ってしまっている。
(C-NET、森祐治 日本のSNS利用はもう限界なのか より)

 人間関係というものは本来多層で複雑なものだと思います。それを反差別の理想の誤解・曲解などで無理に平板で単純なものにしてしまえば、それがどのような副作用をもたらすか測り知れないのではないでしょうか?