微妙な差別、あるいは差別の微妙さ

 かつて私がYahooの掲示板あたりを中心に書き込みしていた頃*1在日韓国人を名乗る人が出てきて「自分は差別されていた」と主張したことがありました。どういう差別なのか皆何度も具体的に問うたところ、仲間に入れてもらえなかったとか妙な目で見られたとかそういうことが語られました*2。これはとても微妙なところです。


 もし偏に彼が「在日」であるという理由で仲間はずれにされていたとしたらこれはわかり易い差別、属性だけで扱いをかえる例と言えるでしょうが、それはその時点で彼の周囲にいなければわからないわけです。もしかしたらその周囲にいてもわからないかもしれません。
 その時「好かれなかったら差別か」というレスもあがったと憶えていますが、仲間はずれにするのはいじめの典型ですし「在日」だから仲間はずれというならばそう考えても差し支えはないでしょう。ただ「それが在日だったからという理由は本当なのか」という声は多かったと思いますし、「好かれなかった」を差別と捉えていいのかについては議論がわかれました。


 「仲間はずれはいけない」とは教わることでもありますし、実際自分がやられればものすごく痛いものです。でも「誰とでも仲間になって仲良しになる」ような世界も本当に私の周りで実現していたかというと疑問です。ある部分には濃い仲間がいて、他は薄い友達かあまり関心がない人たちがいて、そういうのがくっついたり離れたり。ときには自分が孤立したり、おざなりに固まっていたり。友達になってくれと言われてうんと返事して、三日も経たずに仲違いしていたり…。考えてみれば結構複雑な人間関係が子供の時からあったようにも感じます。


 在日の彼は中学の時にそれを知ったということでしたが、多感な時期に唐突にそれを教えられれば動揺もしたでしょう。それが本人に妙なこわばりをもたせたかもしれません。陰のない付き合いを望む子たちからは、その暗さだけで敬遠されたかもしれません。また本人も気付かない何か他の理由があったかもしれないです。


 理由があれば仲間はずれにしてもいいとは言えませんが、望めば必ず親しい友人の輪に入ることができるとも言い難いのです。修学旅行でどのグループからも誘われない的な仲間はずれがあったのか、それともどこかの仲よしグループに入れてもらえないのを仲間はずれと感じたのか、そういう詳しい話はなしでした。


 非常に問題となるのは、仲間はずれを感じるのは「在日」でなくともあることだということです。また好かれないということについても同様です。たまたま彼は自分がその属性であるということを意識していたためにそれを差別と表現しましたが、もし彼がそうでなかったとして、自分への扱いを差別だと言ってどのぐらいの人がそれに賛同してくれるでしょうか?


 恥ずかしい話ですが私はそこで、何でもかんでも差別差別と言って自分の受ける扱いを差別が原因だと考えるのはおかしい、というような強者の理屈を言っていたはずです。言い方もあったろうにと今なら思います。
 でもたとえば、あの子は社会的に弱い立場の子だから友達になってあげなさいと言われてそれで友達の輪に加えられたとして、自分がその立場の子だったらいやなものだなと思ってしまいます。また、自分は弱者だから嫌えば差別だぞと面と向かって言われたりしたら、それは気分が悪いものでしょう。


 本当に考えてみれば、お前は嫌いとすること自体が差別なのかもしれませんし、キモいウザいという表現を投げつけることがもう非道い人格攻撃なのかもしれません。そこに明らかな「聖痕」があるかないかということでこの問題を捉えるだけではすまないのではないかとも…
 こういうことを昨日からぐちゃぐちゃと考えていました。

*1:5、6年ほど前の話ですが

*2:以下、彼の話が本当だったとして考えてみます。絶対Yahooの掲示板だったかはもしかしたら微妙