コメントを補う意味で…
今朝、macskaさんの「■侮辱しても差別にはあたらない集団」という記事を読ませていただき、そこにコメントさせていただきました。
この記事で語られている内容(詳しくは上記リンクから辿ってご覧いただきたいのですが)を私は、社会的地位・階層の一定の認識が世間ではあるだろうということ。その位置が下の者から上のものに対する蔑視発言は差別ではなく(下→上は差別できないから)、上の者から下の者への侮蔑はそれが些細なものであっても差別的な意味が含まれ易いということ。…だと受け取りました。
これは一見分かり易い差別的侮蔑とそうでない侮蔑の切り分けに見えますが、二者の上下関係?は「世間」で決まっているだろうと(言い換えますと常識でわかるだろうと)考えてしまっている、まずその点で危ういもののように思えました。
世間なんて自明なものではなく(そこに大まかな共通性はあっても)勝手に皆が自分で作り上げるものではないかと考えますし、不確かな「常識」にしか頼れないならば「上―下」関係などいつでも自明というわけにはいかないだろうと思うからです。
ちょっと考えてみても、たとえば「男>女」という常識があったとして、同時にその「男」が卑しめられるような職業で「女」が顕職の場合、どちらが上でどちらが下などと誰にすぐに判断できるでしょう?
次に考えたのは、こういう風に捉えた構図では「自分の方が上と思ったら気を使ってあげるべき」とでもいうような倫理が働きそうなのですが、それは絶えざる相手の値踏みと申しましょうかそういう気の遣い方を要請して、結局上だの下だの考えない付き合い方を阻害してしまうんじゃないかということです。
もしかしたらそこは杞憂なのかもしれません。でもさらにそこで思ったのは、お互いに上とか下の認識が一致したとして、それは立派に「差別構造の完成」になってしまっているのでは、ということです。
この人のポジションは自分より上と片方が思い、もう一方が相手の方が下と思うところでいつも一致するようならば、そしてそれが世間的に常に動かぬ認識になったならば、それを私たちは差別的社会と呼ぶんじゃないでしょうか?
そしてこういうようなことの前に、私が真っ先に疑問として書き込んだのは
昔中学の社会科の先生がアメリカへ旅行して酒場で「jap」と言われた話をしてくださいました。その話を聞いて正直ぞっとしたのを憶えています。シチュエーションを限定せず「世界のどこに行っても日本人という国籍に守られた人々こそ、侮辱しても差別にはならないのだ」なんていう言葉はあまりに不用意では?
ということです。なぜ先にこの表現を書き込んだのかということについては、些か理由があります。私の過去記事でも日韓関係に関することが少なからずあるのはお読みいただいた方には明らかでしょうが、2001,2年頃からの私の関心の中心は多く日韓関係・日韓の歴史問題あたりにありました*1。
当時いろいろ書籍を買って調べたりネットで意見を交換したりするうちに、韓国に対して(あと北朝鮮や中国に対しても)「気を遣うのが当然だ」と考えている一群の人たちと接触が多くなりました。それはどうも「日本がかつて彼らに対して行った不当な行為」ゆえに贖罪的に彼らに対すべきと考えている人たちのようでした。私には60年前の私が生まれてもいないときの自国の行為に自分が責任を持つべきだと考えるのが不思議に思われましたし、何より韓国でも中国でもそういう国々の人と「対等の議論はしてはいけない」と言っているように感じられました。そんなバカなと思いました。
で、そこらへんに関してもこの日記ではたびたび書いてきたわけですが、私には彼ら贖罪派(仮称)が韓国や中国などを「悪いことをした人たち。可哀想なことをした人たち(の子孫)」として固定的に考え、さらにどこか「気を遣ってあげなければならない人たち」として逆説的に「下に見ている」という気がしたのです。次の引用のような感触でした。
今日本で、アメリカの悪口を言ってもイギリスを批判しても、アメリカ蔑視だイギリス人差別だと言う者はいない。それが中国となると、それ中国蔑視だ中国人差別だと金切り声を立てる者が現れる。なぜか。当人たちもはっきり意識していないだろうが、彼らの心中には、日本は中国より上だ、中国は弱い国で中国人は弱い人達だ。「自分たちが守ってやらなくては」という思い上がりがある。その思い上がりは、戦前シナ人を軽蔑した日本人と紙一重、いや同じ穴のムジナだ。なまじ良心づらしているだけ気色がわるい。
(高島俊男『本が好き、悪口言うのはもっと好き』より)
macskaさんがそういう人たちだとは申し上げる気はございません。でも記事を読ませていただいて、この構図を真っ先に思い出したのでした。だからこそ質問の冒頭が(ちょっと細かいことに拘泥しているような)上記のものになったのです。
私のコメントの続きは
またこのエントリーでは「世間」が自明のものとして語られていますがこれにも疑問です。立ち位置によって世間も違ってみえてくるでしょうし、かなりそれは相対的なものでしょう。そして、その世間がいかなるものであれ、そこから「ある一面の属性だけ」で切り取られてしまえば(たとえば「政治家」でも「主婦」でも)それは残りの側から不当な蔑視=差別的侮辱を受けることはあると思いますので、この前後に書かれて納得できていた「蔑視発言をめぐる議論」ほど賛同できないという感想です。
となっていますが、家に帰ってきてから読み直してこれはわかり難いものかもしれないと感じまして、ここで記事を書いて補遺にさせていただこうと思ったわけです。
そしてここの最後もコメントの最後と同じ言葉で閉めさせていただきます。
お帰りになられてからの続きに期待します
*1:もしかしたら今は他の関心の方がややもすれば上になっているかもしれません