連帯責任

 いじめと現代社会BLOGで紹介されていた壮絶な管理教育("熱中教育")の例などを見るにつけ、自分がそういう教育環境に出くわさなかったのは幸運だったと思います。そしてそれ関係であちこち見て回った折、nigellanoireさん@ニゲラ嬢の雑記帖の「■[book]私も属したあの・・・?」という記事から、明治学院大の原武史さん(44)によるある書籍の出版紹介(記事)に出会いました。

 1974年、自ら通っていた小学校で何が起きていたのか――。明治学院大教授(政治思想史)の原武史さん(44)による「滝山コミューン一九七四」は、東京郊外の大規模団地の小学校で実践された「運動」を、体験した筆者がつづっている。昨年、文芸誌「群像」に掲載されて評判を呼び、5月、講談社から単行本が刊行される。


 民主的な学校の確立を目指して住民と教師が一体となり、児童に主体性を持たせた「集団づくり」に取り組む。しかし、原さんが「滝山コミューン」と名付けた共同体の「集団主義」は三十数年後まで自身の心に傷を残した。


 記述は当時の教師や同窓生らへの膨大な取材に基づいている。多様な資料を引き、取り組みが一地域の特殊事例でなく、いまでは忘れ去られた教育運動に裏打ちされていたことを明るみに出してゆく。
asahi.com 「私」投影し「1年史」語る試み 出版や番組制作相次ぐ より抜粋)

 ここに書かれている「コミューン」はおそらく思想的には左側のものだったと思われるのですが、本当に右も左もなく「集団主義」というものが人に負担を強いる時はあろうと考えます。


 かつて、ある「反差別」の運動の人からこんなことを言われたことがありました。差別を知らなかったから自分は差別をしていないというのは欺瞞だ。その差別を看過してきた者には当然責任が生じている。そして今やこの差別を知ったのだから、なおのことこの活動に協力しなければそれはどんどん差別側としての責任を重くすることになるんだ、というようなことです。


 私がその時感じたのは連帯責任が自分に強要されている時のその感覚でした。反発を覚えました。でも当時まだ青かった私がこの理屈に相当な力を感じたのも確かです。長い時間その話につき合わされました。連帯責任論には一定の理屈があるのです。その多くは「不作為」=なにもしなかったことへの責任を自覚させようとするものだと思います。


 今の自分でしたら、一般の人間が明確な行為責任以外で責められるのはいかがなものかと反論するでしょうし、「道義的責任」はあくまで本人が自分で引き受けるものであって、それを他人から強制することなどできないと言うと思います。そして、何に責任を感じどう自分が行動するかは私の選択にかかるものだから、あなたたちに協力するかどうかは自分で考えて決める…というようにしてすぐにその場を去るかなと。


 ところがこの連帯責任に対する「対抗理屈」は、往々にして「何もしない自分への言い訳」と全く同じにしか見えないのです。そういうふうに自分で感じてしまうと、自分の中から「自分で決めるといっておいてほら何もしていない」という声がしてしまうもの。そしてその「嫌さ」から逃れるには実際どこかで何事かをしなければならなくなります。あるいは逆に何もしないということに頑なになるか…


 自分が何か人々の協力を求めたいことに関わっているとき、そのことに無関心で集ってきてくれそうにない多くの人々を見て情けない思いになるというのは私も経験したことがあります。場合によってそんな時、あちこち糾弾する口調で「連帯責任」の変奏を言いたくもなるのは人情かもしれません。でもそこはぐっとこらえて、相手に関心を持ってもらえるようなアプローチを考える方が絶対に良いと今は思っています。


 人それぞれ関心は異なり、自分に近いものは大事に思え遠いものはたいしたことないように思え、深刻なことがあってもつまらないことで笑ったり、妙なことに涙を流したり…そんなささやかなひとの人生を(部分的にも)自分の思い通りにしたいと考えることは、やはり大それたことなのではないかと思うのです。
 後味が悪くないのは、糾弾より説得、詰問よりお願いですよ。