「村上春樹の文学は日本の過去に免罪符を与えようとしている」(朝鮮日報)
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先月30日から31日にかけ、高麗大100周年記念館で高麗大と東京大の共同主催で開かれた「東アジアで村上春樹を読む」シンポジウムに参加した小森陽一東京大大学院教授(言語情報科学)は、「記憶の消去と歴史認識」という主題発表で、「『海辺のカフカ』がヒットした背景には、日本の社会構成員らの集団的無意識の欲望と作家の文学表現が結合した極めて危険な転向の姿がある」と主張した。
小森教授は昨年にも日本で、『村上春樹論−『海辺のカフカ』を精読する』という著書を発表したことがある。小森教授の主張の核心は「日本社会では、戦争の記憶が無意識の傷として位置づけられており、その傷に対する集団的罪悪感の治癒を求めている」というものだ。小森教授は、特に『海辺のカフカ』が「侵略戦争をめぐる記憶を想起させるエピソードを数多く登場させているものの、わずかな間だけそれを読者に想起させ、“すべてのことは仕方のないことだった”という風に容認した後、記憶自体をなくしてしまう」と指摘した。
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この日のシンポジウムに出席した中国・北京大日本学研究センターの秦剛教授も、村上春樹の文学が様々な面で非日本的・脱日本的な面があると評価されることに異議を唱え、「『海辺のカフカ』には、世界はなぜ暴力的で、戦争と暴力が発生する背景に何があるのかなどに対する問いかけが欠如している」と指摘した。
『海辺のカフカ』を翻訳した高麗大日文科の金春美(キム・チュンミ)教授は、「韓国における村上春樹−その外縁と内包」という発表文を通じ、「村上春樹批判に対し、植民地支配の被害者として共感を持って受け入れることができる。しかし、都市的な感性や政治的喪失感などを通じ、(韓国人が)村上春樹の世界観を内部に受容した部分もあるだけに、(村上春樹文学を)自らの文脈に基づいて再構築する必要がある」と主張した。
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(朝鮮日報 4/2)
まず文学作品がどのようにも読まれ得る(正解はない)という前提の上で…
ここで発言が挙げられた人の多くは、文学は政治に従属すべきだと考えておられるのではないかという第一印象です。たまたま小森氏が「村上春樹の文学は日本の過去に免罪符を与えようとしている」と感じられたということはあるでしょう。文学作品は、作者の意図を越えて読まれ得るものだからです。小森氏の興味関心がそちらの方向にあった場合、そういう読み方をされることだってあるでしょう。
しかしそれは個人として「文学」を読む態度としてはあり得ても、決して学問ではありません。印象批評で文学を語ることが「学問的装い」「シンポジウム」云々の文脈でこのように記事になるのは大変不快です。
小森氏の言葉、秦剛氏の言葉には政治的な臭いしかしません。ここで問われるべきは、政治に従属した読み方しか文学に許されないとしたら、それはどこぞの情報統制国家と同じではないかということです。「NHKスペシャル 激流中国「ある雑誌編集部 60日の攻防」の放映があったばかりの日に、これはもう皮肉なこととしか言い様がないのでは?
(※ 今日たまたま「村上春樹風…」で悪ふざけしたばかりでしたので、逆にちょっとむきになってます)