昨日の補遺

 たとえば自分が何か一つの社会的問題に献身的に取り組んでいて、それに対して無関心な人を見ていらいらしたり、どうして無関係と思うのかと憤ったり…そういう時に人を巻き込むためにしばしば使われるのが昨日言及したような「道徳的詐術」ではないかとも思います。そういう意味では私はこの種の発話者に悪意はあまり感じません。ただおそらくご自分もその詐術に絡め取られているんじゃないかなと…
 これに自らが駆り立てられてしまうと(良心的な人ほど)もう疲れ果てるまでその活動に邁進しなければならなくなるのではないでしょうか。そしてさらに理屈は先鋭化し、それについていけない周囲との間に溝すらできてしまうかもしれません。そういう道に他の人を巻き込むことについては「ためらい」があってしかるべきとも考えますがどうでしょうか。


 昨日の記事を書いたきっかけとなったのは、ブクマの森岡正博「姥捨山問題」あたりでした。森岡氏の本も何冊か読ませていただいていますので、ここの議論には興味をひかれました。(ここの話自体に対する全的な同意ではありませんが…)
 そこからsugitasyunsuke氏の「いちヘルパーの小規模な日常」(04/05の記事)に飛び、そのコメント欄を読ませていただいてからトラックバックのfont-da氏の「キリンが逆立ちしたピアス」(04/07の記事)に至りました。G★RDIASの当該記事を読んだのはその後でした。


 私がトラックバックしたx0000000000氏のエントリーはfont-da氏の問いかけに答えていないと思いましたし、なによりそれは私がずっと気にしている「責任を押し付ける詐術」的構成になっている(さらに言えば論としてなっていない)ように見えましたので昨日の記事を書いたのでした。
 勢いに任せたところは反省すべきかと思っていますが、この詐術の類についてはつい最近も書いた(過去日記:連帯責任)ばかりでもありましたので、すぐに反応してしまった次第です。


 きっかけの森岡氏の議論にも議論の簡略化があります。たとえば

 人工妊娠中絶がこんなにも多いのはなぜか。若い女性たちはどのような動機で、人工妊娠中絶を選択するのか。彼が堕せと言ったから。経済的理由から。生まれてくる子供のことを思って。しかし、表面には出てこない重要な動機のひとつとして、「経済的に私が苦しくなるのがいやだから」「生まれてくる子供のことを思いやってではなく、子供を産んでしまったあとの私の生活のことを思って」という動機があるのではなかろうか。私はまだ若い。お腹のこの子さえいなければ、私はもっともっと楽しい生活をエンジョイすることができる。今、この時期に子供が生まれるのは、私にとってこのうえない迷惑である。だから、胎児にはかわいそうだが、私は人工妊娠中絶を選択する。

 こういう風な気持で中絶する方もいらっしゃるでしょう。おじさんから若い女性を見るとこういう具合かとも思います。「いかにも」な推測です。
 ただ中絶の心理はこれだけと断定することはもちろんできませんし、それが不完全だということは常に自覚して論を進めなければならないと考えるのです。(森岡氏にその自覚がないとも思いませんけど…)