詐術2

(※下に追記あります)
 先日の「道徳的詐術」関連です。女教師ブログのterracaoさんのところで「「人殺し」扱いされるのがそんなに嫌ですか。」というエントリーを見かけました。

1. 俺は人殺しじゃない、俺は人殺しじゃない、俺はひt(以下略

http://d.hatena.ne.jp/gordias/20070409/1176086019のx0000000000氏の文章を引いてるエントリ*1をいくつか読んで思ったこと。



みんな、必死の形相で、自分の《人殺し》性を否定してる。。。


必死すぎるよ。



《間接的》であれば、当然誰もが潜在的に「人殺し」だと思うんだけどなー。そりゃ、つらいのはわかるけど、事実として直視しなきゃいかんだろう。もちろん責任の取り方はいろいろ。全部の責任を負うわけじゃない。




というわけで、自虐力が落ちている! (←これ、言いたかっただけ*2)

(以下略)

 どうでしょうか? 私には典型的な藁人形の論法に見えてしまいました。

 x0000000000氏の書かれたものを批判した連中は「自分の《人殺し》性を否定してる連中」だ。その否定に必死な奴らだ。ヒトゴロシと言われてつらかったんだろうね。でも自虐力は大事だよ。

 こういうことをおっしゃっていると受け取れたのですが、私見ではx0000000000氏批判のポイントはそこにはないように思われます。
 ここにコメントを書かせていただきました。

uumin3 『こんにちは。私が真っ先に書いたようなんですが、私もいろいろ皆さんの意見を見ました。見た限り大体が「他人をそれで責めるのをやめれ」というご意見だったと思いましたよ。
うちのとこでも「自分に向けて言うのはありだけど」って書いてましたし、自虐力?に関してはピントがはずれてるような気もします。
あの手の言葉は「(自分を責めるように見せつつ)誰かを責める言葉になっている」のが問題なんですよ。そして自責で終るんだったら、何も口に出していうこともない。 そうは思われませんか?』 (2007/04/14 21:40)

 私以外の代弁をここでしても推量になってしまうので、取り敢えず私の分だけでお話します。
 このコメントで触れた私の当該エントリーの部分は次のところです

 こういう設定とか倫理判断とか、私は自分自身に問いかける言葉としてはありだと思うんです。その貼り紙を見て自分の頭がアフガニスタンのその家族に向いた場合、そこで敢えてごまかしてしまいそうになる自分を「嘘つき」と思い、「間接的にも人殺しだぞ」と自分に叱咤するというような具合に…


 もともと自分を責める言葉なら胸の中で語ればいいこと。それを外に出すということは、他の人を動かしたいという気持ちがあるからでしょう。純粋な「自虐力」(というものがあるならば、それ)は自分に向けられるだけで表には現れないように思います。だから他の人の自虐力が弱いだの強いだのと簡単に判断されてしまうのは端的におかしいと思われるのです。


 terracaoさんの書かれたものは批判のさまざまな論点を飛び越えて、それを「自分の《人殺し》性を否定したい」という一つの動機を仮想した藁人形に対して向けられている言葉です。それを最初のx0000000000氏の書かれたものへの批判の反批判にすることはもともとできません。
 ちょっと悪質かなと思ったのは、「必死」という言葉を文の中で繰り返して印象を定めようとしているところです。これにはどんな再批判があっても、それが「自分の《人殺し》性を否定したいから必死になっているよ」というように巧みに(仮想した)動機の問題だけにしてしまえるというずるさがあります。私のコメントの後で

yuki_19762 『「間接的な人殺し」言われて自分が責められたとか誰かを責めてる言葉だと断定する人はやっぱり「自分は人殺しなんかじゃない!」って思ってるんでしょうね。』 (2007/04/15 01:42)

というコメントがあるのも、私のこの推測を裏付けているように思われます。
 「批判が藁人形に向けられているならスルーすれば?反論するならやっぱり必死なんじゃない?」という言い方もあるでしょう。一見正論風ではありますが、人は妙な誤解をされていると思うとすごく居心地が悪いもの。何か言いたくなるものだと思うんですよ。そしてそれを言った時に「必死だな」の一言で無効化できるようなポジションを取るのはずるいと感じます。


 さてterracaoさんがここで言う「自虐力」とは何でしょう。私にはそれが「見せる自虐」「相手を動かそうという目的の(見せる)自省」でしかないように思えてなりません。繰り返しになりますが自省だけなら外に見せる必要もありませんし、もし図らずもそれが出てしまったとしても押し付けがましい印象はないものです。
 上のコメントで「(自分を責めるように見せつつ)誰かを責める…」と書いたのをもう少し違う表現で言えば、自分を責めるということを(免罪あるいは責める言葉の言い訳という)手段にして、相手を責めることを目的としたような言葉があって、それが問題だということです。
 あそこで私が言ったのは、「ごまかしだと相手を責める言葉のごまかし」についてです。それを詐術と言いました。そしてx0000000000氏のあの言葉が(氏本人の意思はともかくとして)その形式に嵌っていると判断されたので批判したわけです。


 もともと人を動かそうとすることそれ自体は良くも悪くもないことなのですが、それには自覚的でいたいものですし、人を動かすのは何も責める言葉でなくても出来ます。自分も責めているから他者も責めていいのでしょうか? それは理屈が違うと私には思えるのです。

蛇足

 私のコメントの後についていたid:takisawa氏のコメントについて、

takisawa 『問題はさ「事実を指摘」されることを「責められた」と思ってしまうナイーブな層に「指摘」することすらいけないのか、というところで、私はどんどんと指摘してやればいいと思う。
指摘されて傷つくぐらいならば、「殺されている」のに比較すれば、屁みたいなもんでしょ。名前を間違えられるぐらい屁みたいなもんでしょ。』 (2007/04/14 23:35)

 事実の一面だけ見せて相手を誘導して、自分の思うとおりの世界を相手の前に現前させるのは「宗教者」の手法だと思います。押し付けがましさがなければ確かに自覚を促すぐらいの意味はあると感じますが、それが何か便利な手段のようにはびこっていくのをそのままにしたくはない、と思ったのです。

一つだけ確認。

 ブクマコメントでyukiさんから

2007年04月15日  yuki_19762 謎 もともと他人を責めるような文脈ではないのに勝手に責めを読み取ってないですか?だから素直な感想として「人殺しなんてしてない!って思ってるんだろうな」って書いたんですけどね。他意はないよ。

というお言葉をいただいていますが…。
 x0000000000氏が「本当は、できるでしょう?の原初的風景」の冒頭で

もう少し、この問題にこだわってみたい。

 とお書きになっていますね。これは、kanjinai氏がG★RDIAS「「本当は、できるでしょう?」という暴力」の記事で次のようにまとめられている文脈から来ています。

 老親への介護などの場面で、「介護をしたくない」と言うべきときに、「介護をすることができない」と言い換えようとするところ、そしてみんながその言い方を許してしまうところに、「姥捨山問題」の萌芽があるのではないかという問題提起を、x0000000000さんが行なっている。

x0000000000さんは、さらにこうも言う。「「本当は、出来るでしょう?」という声を封殺してしまうこと、ここにもまた姥捨山問題が論及する暴力が潜んでいるのではないだろうか」

それに対して、id:font-daさんが、そういう「本当は、できるでしょう?」という言い方自体の中に、介護などの現場で揺れ動いている人々を追い詰める別種の暴力が潜んでいるのではないか、と批判している(ように私には見える)。

 これはもともとのx0000000000氏の

私自身は、姥捨山問題とは、端的に「嘘つき・欺瞞」の問題だと考えている。すなわち、「出来るのに、しない」ということを、「出来ない」と言い放ってしまうことに問題があるのでは、と考えている。私が苦しむがいやだから他人を見捨てるのだと、言えばいいのではないか。もしくは、私はそう言わせたい。「いやだから、しない」ということを、「出来ない」と言い放っておけばとりあえずは「許される」、ここに姥捨山問題の萌芽があるような気がしている。「本当は、出来るでしょう?」という声を封殺してしまうこと、ここにもまた姥捨山問題が論及する暴力が潜んでいるのではないだろうか。

 という言葉から始まった議論ですので、「本当は、できるでしょう?の原初的風景」の言葉は明らかに「他人を責める文脈」から出てきた「自責」だと思うのですがどうでしょうか。