軽い「他者」

 G★RDIASでx0000000000氏が関連エントリーを書かれています
 人を責めるのはよくないのか?

 私の投稿した記事「「本当は、できるでしょう?」の原初的風景」に関して、さまざまな反応をいただいている。それはそれで、非常に面白い。


 その上で言えば、「自責としてならよいが、他人の責任を追及するような言い方はいかがなものか」という言い方が複数散見された。これは単に、「他人から責任があると言われたくないだけ」なのではないか、という感じもした。ただそのことが、暴力だという批判は承知している。承知した上でなお、他人の責任は、それがあるならば追及されてよいとは思う。もちろん、そのときに「言い方」や、「誰が言っているのか」という問題は残るとは思うが。

 まず読ませていただいた感想は、あまりにも「他者」というものを軽く考えていらっしゃるのではないかということです。「他者」の責任を問うということに対して「おそれ」がこれほど感じられない方なのでしたら、私としてはもう言及するのを止めてもよいかなとちょっと思ってしまいました。
 人に刃を向けるということの重さをどう感じておられるのでしょう。
 これだけたくさんの人の関心を集めて多くのトラックバック、意見が寄せられたというのに、それが「他人から責任があると言われたくないだけなのではないか、という感じもした」とは。せっかくの機会をご自分の思いなしで台無しにされているのではないかと、老婆心ながら…

 あと、私たちはどうしたところで生命を貪りながら生きているし、生命の宿命として他の生命を殺しながら生きながらえることは、事実として認めなければならない。それを悪と呼ぶなら、私たちは悪を背負いながら生きざるを得ない。本当の問いは、「悪を背負いながら、私たちはどう生きるか」にあるのであって、「悪を悪だと考えない」ところにはないように私には思える。そしてそれこそが、「責任」ということを考えるにあたっての最初の一歩になるのだと思う。「他の生命を殺しながら生きる、ということを背負いながら、一方で私たちは他の生命とどうともに、豊かに生きていこうとするのか」。この問いを、私は手放さずに考えていきたい。

 申し訳ないのですが、後半のこの月並みなフレーズにも感心できませんでした。これならば昨日のtakisawaさんやyukiさんの方がむしろ根性坐っているという感じを(個人的には)受けます。
 ごめんなさい。かなり失礼なことを言っているという自覚もあるのですが、あまりに失望が大きいのです。


 「責任論」というのをお書きになるそうですので、それまでこの話題にはできれば触れずにいたいと思います。


…と思いましたが、terracaoさんの件に関しましては批判させていただいた以上随時コメントやトラックバックはお受けします。ご都合もあるでしょうから急かすようなこともいたしません。いただいたものへのお返事はできるだけ早くおかえししたいと思っております。いつでもどうぞ…(ただ、昨日のコメント欄はすでに長くなり過ぎだと思いますので、今日以降のどのコメント欄でもあるいはトラバでも結構です <業務連絡)



 id:takisawaさん、トラックバック読ませていただきました。そこに拘りを持つお気持は理解できますしその認識をどうこう申すものではありませんが、それはterracaoさんのあのエントリーに対する答えにはなっていても私の問題設定とは「ずれている」とやはり思います。
 その話は全然受け容れても構わないんです、私は。自分の覚悟として自分を「殺す者」と認識して生きるというのは。ただ問題にしているのはその覚悟を他者に押し付けるということ。そしてそれが無反省にできる(できてしまうように見える)都合のいいレトリックはだめなんだということなんですよ。


 id:keya1984さん、トラックバック読ませていただきました。丁寧な考察だと拝見いたしました。気づかなかった点も多く参考になります。でもkeyaさんも私も(もしかしたらtakikawaさんも)長口上ですよね。「その心あまりて言葉も多言」というのは、わかって欲しい意識が強いが故のスタイルかもしれません。「言葉たらず」ぐらいにできれば…(>自分)